○長いこと人生を歩んできたおかげで、怖い話に直面したことは何度もある。
○その中でも最も恐ろしい体験は以下の体験である。
○まず、母親が入院していた。母の入院手続やら着替えやらを病院に運ぶ日常を過ごしていた。
○父は少し前からショートステイに入居していた。この時点で父の入所施設からの連絡は特にない。
○しかし、父の入所施設から電話が来た。父が病院に行くので同行してほしいという電話である。何の前触れもなく朝8時にいきなり電話が来たため、出勤途中で引き返して病院に向かった。
○このときは父が救急搬送されたのだと思っていたが、実際には違っていた。月に一度の通院であった。
○いつもは父が一人で通院していたのだが、ショートステイに入居したため、病院からは家族の誰かが同行することが求められた。
○これで完全に人生が壊れた。電話一本で気軽に呼び出される人生が始まってしまったのである。
○それでも当初はどうにかなった。介護サービスの中に病院付き添いがあったので、そちらを頼ることとした。
○なお、母親からも電話が架かってくる。そのときも「仕事中だ」「今そっちに行く余裕は無い」「職場からなら片道3時間かかる」と断っていたが、「ちょっとぐらい抜け出せば良いじゃない」と言われてさすがにブチ切れた。
○この世のどこに、昼間に片道3時間、往復6時間。病院滞在時間が1時間とすると7時間、それだけの時間を抜け出せる職場があるか。
○そうでなくとも、ただでさえ突発休が連続せざるを得なくなったために評価が下がっていた。昇給時に他の者が「1万円増えた」「2万円増えた」と喜んでいたとき、こちらは雇って貰えているだけでもありがたいという状況まで追い込まれていた。
○転職も考えたが、そもそも介護関係で何度も呼び出される人間を雇う職場などない。しがみつかなければ失業だ。
○その後、父が施設を出て自宅に戻り、母も退院して、自宅で両親を介護する生活となったのだが、これが惨たるものであった。
○母まだマシだったが、父が些細なことで救急車を呼ぶようになったのである。私がいるときは救急車には家族として私も同乗する。そうでないときは職場から呼び出される。そして、会社を休まざるを得なくなる。
○以前から続いていた突発休の頻発が継続したのである。
○それも、救急搬送されるほどの症状であることは一度としてなく、点滴をしたら治った、病院に着いたら治った、さらには救急搬送の途中で治ったなどというのが当たり前になった。
○夜中にいきなり起こされて「××病院に連れてってくれ」と、救急車を呼び出すだけでなく、救急搬送先の病院を指定するのである。なお、受け入れてくれる保証などどこにもない。
○「それぐらいで救急車を呼び出すな」と父にキレ、父をベッドに寝かしつけたこともある。なお、朝起きたときの父は「いや~、よく寝た」としか言わず、救急車を呼べと言ったことすら覚えていなかった。
○その頃にはもう父の痴呆が始まっていた。
○私の朝食用に買ってきたパンやフルグラを父が夜中に食べただけならまだいい。アイスだと思って冷凍食品のソーセージを食べたり、お菓子だと思って来客用のお茶を食べようとしたりした。
○夜中の2時頃に大音量でテレビをつけたこともあるし、マンションの部屋がわからず別の部屋に行こうとしてしまったこともあった。
○こうした父を受け入れてくれる施設が見つかったので入所させることができたが、手にしたのは安心ではなく病院に何度も呼び出される暮らしの復活である。
○何度か通院回数を重ねて、逆流性食道炎によって父がようやく入院できて、それからようやく安心できるようになったと言いたいところであるが、残念ながら安心できない。母はまだ自宅で介護中なのである。
○母を車椅子に乗せて父の入院先に見舞いに行くたびに、父の症状は悪化する一方であることを親子揃って目の当たりにすることになった。
○去年の秋頃にはもう息子の顔がわからなくなり、今年に入ると母のことを自分の妻と理解できなくなっていた。
○父の死については覚悟していたが、その知らせは突然であり、しばし呆然とした。
○その呆然の時間を、喪主としても責務が奪っていった。
○現在は父の四十九日法要を終えた段階であるが、まだまだ責務が残っている。
○我が同世代の面々よ。これから先、この体験が待っていることを心しておくように。介護を押しつけられたら失業するか、失業しないまでも給与高と無縁の暮らしになる。休みどころか日常生活をまともに過ごすこともできず、ただただ疲弊する毎日が待っているのだ。