偉大なる皮肉・職業野球誕生編 | Short+α

Short+α

新作公開
https://amzn.to/446DlZF

○昭和11年の今日に全日本職業野球連盟が結成されたことから、本日は「職業野球連盟設立の日」。

 

○現在のプロ野球から比べると信じられないかも知れないが、誕生当時のプロ野球、当時の一般的な呼び方でいう「職業野球」はこのようなものであった。

 

○まず、選手を集める方法がかなり強引。授業を受けに登校しているのを校門前で待ち伏せて、「ちょっとこっち来てくれ」と呼ばれて行ってみたら旅館で、いったい何があるのかと思っていたら「新しいプロ野球チームを作ったので入団な」と問答無用で入団契約に持ち込ませた。

 

○大学に進学するかプロに進むか悩んでいる選手に対し、「君が選手として入団してくれたら、君の弟も球団の事務員として雇用する」として入団に持ち込ませた。

 

○現在は中学校三年間&高校三年間のあとに大学進学だが、当時は中学校五年間のあとで大学進学だった。なので中学に五年間通わないと中学中退になるのだが、中学四年生に話しかけて中学を中退させてプロ入りさせた。

 

○阪神がプロ野球チームを作ったからという理由で、対抗してうちもプロ野球チームを作れと、入社四年目の社員に電報一本でプロ野球チームを作らせた。それが阪急、現在のオリックス・バファローズである。その文面は「ソツコク ショクギヨウヤキユウダンヲツクリ ニシノミヤキタグチニキユウジヨウヲ ケンセツセヨ」。

 

○まともな形で選手を集め球団を作るケースはある。と言うより、そのほうが多い。その中にはプロ野球選手になりたいという人を集めて入団テストする球団もあり、入団テストで実際に入団する選手もいた。もっとも、入団テストで抜群の成績を見せたので契約した選手がやけに若く見えるので年齢を調べたら14歳だと判明したというケースもあったが。

 

○かなり強引な入団交渉の連続で始まった職業野球であるが、野球の質となるとアマに負けていた。当時の漫才のネタとして、プロなのにアマチュアである大学野球や実業団野球より下手だというものがあった。

 

○一球団あたりの選手の数が少ないこともあり、選手はかなり無茶な使われかたをした。大谷選手の二刀流が話題になるような時代では信じられないであろうが、この当時は四番ピッチャーが当たり前、ピッチャーとして投げないときは他のポジションを守って打者となるのが恒例であった。

 

○ボールの質が良くなかったこともあり、ホームランはなかなか見られなかった。何しろ戦前のホームラン王のホームラン数は10本が最多である。

 

○その代わりにノーヒットノーランは頻繁に見られた。沢村栄治は4年間で3回のノーヒットノーランを達成している。

 

○ノーヒットノーランは頻繁に見られたが、完全試合は一度も無かった。完全試合は戦後になってはじめて達成される記録である。

 

○そして、この時代の職業野球の特徴として、試合がやたら早く終わるというのがあった。試合時間が1時間を切るのも珍しくなかったほどである。

 

○なので、1つの球場に8球団が集結し、1日に4試合を開催するというとんでもないスケジュールが当たり前に見られた。

 

○それを当時のラジオは中継した。なお、当時のラジオでのプロ野球中継は解説者がおらず実況するだけであった。それを、北は樺太から南は台湾、さらには当時の満州国にまで放送していた。

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ