○平安時代叢書ではたとえば「治承四(一一八〇)年一二月二八日」のような年号の記しかたをしている。ちなみに、この治承四(一一八〇)年一二月二八日は南都焼討が起こった日である。
○こう記すと、南都焼討が西暦1180年に発生した事件だと思うかも知れないが、厳密に言うと西暦1180年ではなく1181年の事件である。それなのになぜ「治承四(一一八〇)年一二月二八日」と記しているのか。
○旧暦と新暦でズレているからである。旧暦の治承4年12月28日を新暦になおすと西暦1181年1月15日の事件なのである。ならば「治承四(一一八一)年一二月二八日」と記すべきではないかという意見もあるだろうが、それはできない。12月28日の出来事であり治承4年はまだ終わっていないのである。
○そこで、治承4年は西暦1180年とすると決めて、平安時代叢書は新暦に直して1181年に当たる日時に起きた出来事も1180年に起こったとしている。
○これは私だけがそうしているのではなく、有名なところでは広辞苑が採用している方法である。
○また、私が知るかぎりの書籍や論文もこの方法を採用しており、西暦にしたら年が変わろうと、元号と西暦との対比を固定して西暦を表記している。
○著名な例でいうと、赤穂浪士の討ち入りの日である元禄15年12月14日を、元禄15年は西暦にすると1702年なので1702年の出来事として扱っている。新暦にすると1703年1月30日であるが、元禄15年のほうを優先して西暦1702年としている。
○西郷隆盛と大久保利通は3歳差である。西郷隆盛が文政10年12月7日生まれ、大久保利通が文政13年8月10日生まれ。ところが、西暦にすると2歳差になってしまう。文政10年12月7日が1828年1月23日、文政13年8月10日が1830年9月26日。
○ちなみに、広辞苑を開くと西郷隆盛は1827年に生まれ1877年に亡くなったことになっている。これは、広辞苑に付録にある西暦・和暦対照表に基づいて元号を一律で西暦に置き換えているからで、西暦表記だと1828年生まれであろうと文政10年生まれは無条件で1827年生まれとするから。
○平安時代叢書を書いているとき、元となる史料だと元号表記プラス年月なので問題ないのだが、12月の出来事で、その出来事に特化している書籍や論文だと、余計なことと言うべきか、西暦にするだけならまだしも、年をわざわざ新暦で書いているのがあり、これがややこしいこととなる。
○研究者の中にはひねくれている人もいて元号を徹底的に使わずに西暦にこだわる人もいるが、そういう人の書いた論文はアマチュアの私でもツッコミを入れたくなる内容である。
○まあ、平安時代叢書もツッコミを喰らうことの多い代物ではあるが……