○自身としては一度も優勝監督経験を持たないが、監督に就任した球団がことごとく常勝球団へと成長するというとんでもない実績を持つ人がいた。
○大正15(1926)年の今日が誕生日の故根本陸夫氏である。
○プロ野球選手としての経験はわずか6年、うち2年間は一軍出場無し。出場試合数は186試合という特筆すべき実績を持たなかった根本氏であるが、指導者になると特異な実績を残した。
○42歳の若さで、球団創設以来一度もリーグ優勝どころか3位に入った経験すらなかった広島カープを3位に導く。ただし、翌年のカープは最下位。
○ところが、その最下位となった年に、後の広島カープ不動のレギュラーとなる山本浩二、衣笠祥雄、水谷実雄、三村敏之といった面々を発掘し、球団のみならずセリーグを代表する選手へと育て上げた。
○ただ、根本氏の豪腕が発揮されたのはライオンズ監督就任からである。
○当時福岡に本拠地を持ちクラウンライターライオンズと名乗っていたライオンズの監督に就任したのち、ライオンズは球団買収によって西武ライオンズとなる。そこから先が根本氏の能力の見せ所であった。
○現在は認められていないが、当時はドラフト会議で指名されなかった選手を自由に契約できた。昭和53(1978)年のドラフト外の目玉となったのは、東京ガスの松沼博久投手と東洋大学の松沼雅之投手の兄弟投手である。
○当初は兄弟揃って巨人に入団するという話になっていたが、根本監督はフロントに要請して兄弟揃ってライオンズに入団させることに成功。噂では巨人が用意した契約金の1.25倍の金銭を用意したという。
○これに激怒したのが巨人の親会社の読売新聞。読売新聞及び関連企業の出版物から西武グループの全ての広告の掲載拒否という通告を受けると、根本監督は対抗して、西武鉄道沿線の全ての売店から読売新聞を撤去。
○さらに、阪神の四番打者であった田淵幸一と主力投手であった古沢憲司の両選手を四名の選手との交換トレードで獲得。また、ロッテで四番を打っていた山崎裕之もトレードで獲得。そして、このとき自由契約選手であった野村克也も獲得と、シーズンオフの話題を独占することに成功した。
○ただ、それだけではまだまだ。根本氏が「球界の寝業師」と呼ばれるようになったのはこの後からである。
○高校野球で熊本県を代表する投手であった秋山幸二をドラフト外で獲得。巨人をはじめとする他球団が投手としての入団を誘ったのに対し、根本氏は野手としての起用を明言した上での獲得であった。
○同じく熊本県を代表する捕手であった伊東勤を所沢高校定時制に転校させただけでなく西武球団の職員として雇用。翌年のドラフトまで他球団からの接触を一切許さないという囲い込みであった。
○同年のドラフトで、社会人野球入りを表明していた工藤公康をドラフトで指名。工藤投手の入社を予定していた熊谷組と西武グループとの関係悪化が見られたが、一瞬にして関係悪化は消え失せた。西武グループ関係の建設を、グループ企業の西武建設ではなく熊谷組が担当するようになったのもこの頃からである。
○監督としての手腕は高くなかったが、選手を入団させ育て上げる能力は極めて高く、監督辞任後は西武球団のフロント入りをする。
○その後、ドラフト会議で球界の寝業師は根本マジックと言われる伝説を残す。
○誰もが認めるドラフト1位獲得は6球団競合での清原和博の獲得ぐらいで、その他は以下のようなドラフト指名をした。
○その年のドラフトの目玉であった立教大学長嶋一茂の指名の噂を流しておいて、浦和学院の鈴木健を獲得。
○ケガをしていた渡辺智男の手術を西武球団専属の医師が執刀。渡辺智男は西武がドラフト1位で指名しそのまま西武に入団した。
○後にエースとなる石井丈裕も、プロ入りは難しいだろうというケガの噂を流しておいてドラフト2位で指名した。
○選手獲得はドラフトだけでなく外国人選手も含まれる。特に台湾を代表するピッチャーであった郭泰源は日本球界だけでなくアメリカ大リーグも調査していた投手であったが、親族全員の就職を西武グループで保証することで獲得。
○その一方で、当時全く無名であったタイラー・リー・ヴァン・バークレオを二軍での育成を前提として来日させ入団させる。来日の翌年、リーグ2位となる38本のホームランを放つ大砲になるとはこのとき誰も予想していなかった。
○その結果、昭和57(1982)年から平成6(1994)年までの13年間で11回のリーグ優勝、8回の日本一を獲得した。
○その根本氏を引き抜いたのが、現在のソフトバンクホークスの前身であるダイエーホークス。昭和48(1973)年にリーグ優勝をしたのを最後に優勝から遠ざかっていた球団である。
○ホークスの監督に就任した後、ホークスでもやはり寝業師は健在であった。
○ただ、西武ライオンズで体験したような優勝経験を根本氏は経験できなかった。
○ダイエーホークスとしての初優勝を迎える前の平成11(1999)年4月にこの世を去ったから。しかし、誰もが西武ライオンズの土台を、そしてダイエーホークスの土台を作った根本氏を忘れなかった。
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