○平成22(2010)年の今日、一人の元プロ野球選手が亡くなった。島野修氏である。
○島野修という野球選手を知らなくとも、昭和プロ野球でのこのマスコットならば知っているという方もいるであろう。今はなき阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」。
○このブレービーの中に入っていたのが島野修氏である。
○もともと島野選手は将来を期待されていた投手であり、昭和43(1968)年のドラフトで巨人に1位指名された選手であった。しかし、プロ入り前にケガをしてしまい、巨人在籍7年間で1勝しか残せず、阪急に移籍して3年間在籍するも一度も一軍に登板することなく現役を引退。
○その後、一度はプロ野球から離れるが、アメリカ大リーグで見られるようになり、日本のプロ野球界でもヤクルトや日本ハムで採用するようになっていた球団マスコットを阪急ブレーブスでも用意しようとなり、中の人として島野氏に白羽の矢が立った。
○球団職員の説得には応じなかったが、阪急ブレーブスのキャプテンであった加藤英司選手が頭を下げたことで、ブレービーは実現した。
○通常、マスコットは中の人などいないということになっているが、阪急ブレーブスはブレービーの中にいるのが島野修であるとかなり早い段階から公表していた。
○ケガでボールを投げることはできなくなっていたが、プロ野球選手であったことの体力に加え、野球展開に応じたパフォーマンスを見せることが阪急ブレーブスの観客動員アップにつながる結果を見せた。
○阪急ブレーブスが身売りしてオリックスブレーブスとなり、球団名変更でオリックスブルーウェーブとなり、マスコットが変更となっても、島野氏はマスコットの中の人であり続けた。
○その結果が、マスコットとしての試合出場1175試合。体力が求められるマスコットという仕事において、この出場試合数は常識では考えられない数値である。
○マスコットの着ぐるみは重量10kgを越える。その上、着ぐるみの中は灼熱であり夏場は1試合で3kgは痩せるという過酷な労働である。
○マスコットデビューは31歳、マスコット引退は48歳。既に体力の限界であったことから平成10(1998)年マスコットを引退。
○この引退時、パリーグファンの会合である「純パの会」はリーグ最優秀賞である「純パ賞」に島野修氏を選出した。監督でも選手でもない個人がリーグ最優秀賞に選出されたのは、後にも先にも島野修氏ただ一人である。
○ドラフト一位の転落人生と東京新聞や読売新聞は特集記事を組んだこともあったが、そのような新聞記事を書く人より、島野修氏のような生き方をする人や、島野修氏を評価してリーグ最優秀賞に選出する人達のほうが格好良いと思うのは私だけであろうか?
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