避難した所のすぐ傍らの
鉄で出来た 火の見やぐらに、怖ごわ上がってみると
暗い町を下の方に控えて、南東から北東にわたって
遠くの方は、まだ盛んに燃えていた。
午後半ば頃までは南風だったのが、
西風と変わって、火は益々燃え移るもののように
時々彼方此方に 炎は高く上がった。
遠く南の方には、横浜や品川だと云われる所が、
矢張り燃えていて
明るく見えていた。
少しの間、こうした惨憺(さんたん)な有様を見渡しては、
僕らは寒い様な心持ちになって、火の見やぐらから降りた。
・
「今晩は、皆ここに寝ているんだ」と言うので、
僕らは、柵を越えて 砂の上に布団を敷き
省線電車の鉄道を枕に、無論 着物を着たまま、足袋を履いたまま
よくよく疲れたものだから、ぐっすりと寝込んでしまった。
夜の間にも、地震は3~4回よって
一晩中眠られずに鉄道へ腰をおろして騒いでいるヒトもあったが
僕らは、よく眠っていて おぼろげにそれを聞いていた。
・
僕らは、案外平気だった。
親兄弟も(ここには)居らず、自分ひとりで
別に心配することもなかったので、逃れるだけ逃れようとした。
もう、そんな事は 地震が始まった時に覚悟していた。
・
その夜は、蚊やシラミに食われることもなく
至って快く眠って、明ければ9月の2日。
太陽は何を知る気配もなく 東天に昇った。
僕らは、また2回ほど火の見やぐらに上って四方を見回した。
火事後の余煙は、未だに収まらなかった。
遠く西の方を望んだ時、微かに山脈のあるのを見つけた。
僕は、東京へ来てよりその朝
初めて、山というものを遠くながら見たのだった。
・
それから僕らは、
持ちだされただけの荷物を、皆運び返してしまった。
地震は しばしばよって来るので、
その日は、誰も家の中に居る者はなかった。
淀屋の焼け跡のへんに、瓦や灰を片付けて
小さな小屋のようなものをこしらえていた。
そしてそこを借りの庵として、長い溜息をしていたんだろう。
淀屋の番頭や、甲陽館の女中が来て 何悲しい色もなく
焼け跡を探すこともあった。
あの、よしちゃんという表情に富んだ色の白い
しかも優しい草履屋の娘は、可哀想にも家が焼けて
何処に逃れて行ったのか 影も形も見えなかった。
別荘だなどと云った牛飯屋も焼けてしまったのだ。
また、力無げに上った余煙に覆われた空を
逸早く偵察に出かけた飛行機もあった。
続く
(一部読みやすいように、加筆・文体の変更をしてあります。)