昨夜はずっとぬりえをしていた。
庭に小さい畑を作ったりしていて、いっときぬりえする時間が減っていたが、
数日前からまた、ぬりえに戻って来た。
昨日は16:30ごろに机の前に敷いた座布団に座って、自分の落書きの束を出して、塗り始めた。
そのまんまずーっと塗っていた。昼ごはんをたくさん食べたからか、あまり腹が減らなかったので夕食は摂らなかった。部屋でコーヒーを飲みながら、ずーっとぬりえをしていた。
だいぶ時間が経って、ああ、このいつ終わるかわからないと感じている作業を手当たり次第にやるのもいいが、どこかに収斂させて行きたい、と思う。こう思い始めたら、一旦塗る手を止めて、落書きした紙を分類し始める。落書きに自分なりのルールがある。それに従って分類する。分けたら、クリアファイルに挟めるものは挟む。入らない束は、落書きを挟んだクリアファイルで仕切って並べる。仕切って並べると、どこまであるのか、いつまでかかるのかわからない作業をえんえんとやり続けている時とは意識が変わる。全体の量、紙の枚数は変わらないのに、明らかに軽くなったように感じる。こういうディレクションをする時がたまにやって来る。作業の方向づけ。クリアファイルが水路となって、水が流れる方向をガイドしてくれる。作業の方向に一定の制約が与えられる。この紙の分類がしたくなる時がたまにやって来る。前回の分けて、クリアファイルに挟んでるのを出してみると、「あれ、これなんだったっけ」というのがたまにある。「ああー、あれね、」と思い出す。「もうこれ分けんでいやろ、ていうやつはもうクリアファイルから出して「未分類」の山の中に入れてしまう。そうやって残って行くクリアファイルと消えて行くクリアファイルがある。なんか通し番号がすみっこに振ってある紙もある。それらも山の中に混ぜ込まれた。
分類作業を多分1時間くらいやっていた。2:30である。計算してみたら、8時間くらい経っていた。ぬりえは7時間くらいやっていたのではないだろうか。早よ寝な、ああ、もう寝ないと、と思いながら、ついやり続けてしまう。一種の依存症のような感じもしないではない。依存っていうことは、何かから逃げているのだろうか。僕の場合たとえば、ぬりえに没頭している間、なんかから逃げているのか。思い出したくないことから逃げている、みたいな要素はあるのかもしれない。
そう言えば春頃、久しぶりに会った友人が、「自立するっていうことは、依存先を増やすことだ、って誰かが言ってたんだけど、…ええと、誰だったかな…」と言っていた。依存でバランスが取れるなら、依存もありやろ、タバコ吸うみたいなもんだ、フーーーッと、タバコ吸ってる間息が出来て、一息つけるのである。タバコに火を点けて口まで運んで、くわえて、チューーッと吸い込まなくても、呼吸は出来る。しかしタバコというキッカケによって、タバコ吸ってない時とはちがうやり方で息が出来るのだ。そのための装置とも言える。
依存してる感じって、どんなのだろうか。自分の中からの発動ではなく、相手の中からの発動に応えるという形に、身を任せている状態、みたいな感じがする。動機が相手にある時、と言うか、他の人の動機に乗ってしまっている時、みたいな感じだろうか。相手の動機に合わせていることによって、自分を許せる、と言うか、自分を許すために相手の動機に合わせる、と言うか、自分で自分を受け入れられない、その受け入れられない、自分にきれいに入ってない、おさまりきれてないはみ出した部分が、やり場が無いので、他の人のため、など、言い訳だとか建前だとか大義名分だとか、雑にまとめると言葉みたいな(?)ものの中に居場所を求める、という活動だろうか。
いや、もっといい喩えが思い浮かんだ。星じゃないかな。地球は太陽の周りを回っているらしい。しかしそれは、太陽が地球に対してあんまり大きいがために、地球の運動が太陽の軌道に影響を与えていることが無視された言い方である。どんなに小さくても、地球は太陽の運動に影響を与えている。ハンマー投げの選手はハンマーを振り回しているように見えるが、ハンマーに振り回されてもいるのだ。互いに互いの周りを、回り合っていると言うか、互いに振り回されているのだ。地球と太陽の場合、大きさがだいぶちがうので互いに振り回し合う、重心が、多分ほとんど太陽の中心近くにあるので、もっぱら地球が振り回されているように見える、ということだ。立って、石ころを胸の辺りから落とす時、石は地球に引っ張られているように見えるが、厳密に言うと石が地球を引っ張ってもいる、と数学の先生が言っていた。
なんかちがう話になって来たような。依存だった、依存。やっぱシンプルに考えると、おんぶされている状態ではないか。僕は机と、落書きの束の上に乗っかっているだろうか、それとも机と紙の束、「ぬりえ」が僕の上に乗っかっているだろうか。いや、やっぱ星の喩えはいいかもしれない。僕がぬりえの周りを回っているだろうか、それともぬりえが僕の周りを回っているだろうか。…リクツは抜きで、実感は、ぬりえが主人で僕が召使いのように感じる時がある。机にしがみついているような感じがする時もある。
そういう時は基本的に、体力が落ちている時のような気がする。気持ち的に落ちていたり。
気持ち的にも体力的にも、上げるためにはやっぱ、ちゃんと寝るのがいちばんである。なので2:30までぬりえしてないで寝た方がいいのだ。と言うかもっと日中の早い時間から始めて、やれば、いいのだ。そうすれば思う存分ぬりえも出来て、早く寝ることも出来る。
タバコ吸う人は、タバコの周りを回っているだろうか、その人の周りをタバコが回っているだろうか。タバコ吸ってるんだろうか、タバコにタバコを吸わされているんだろうか。…依存とは「やり過ごす」方法、という側面があるのかもしれない、と思った。とりあえず今を、「やり過ごす」。「やり過ごす」ことが出来る。タバコによって。
依存先を増やすって言うのは嗜好品の話でなくて、頼る先を増やすってことだろう。自分だけでは出来ないことを、誰かに頼って、やる。誰かに頼っている間に、休む。その頼る先が多いといいってことかな。…自分一人では自発的に呼吸出来ない、落ち着けない、なのでタバコに頼る、という意味では、タバコも依存先と言えるか。頼ることを続けられるっていうのがポイントのような気がするな。だから依存先がひとつよりふたつ、多い方がいいってことではないかな。
ぬりえを振り返りながらこういうことを考えた。このような話、考えたことを順番に、周りの人に話すと、「相変わらずめんどくしゃーね」と言われる。自分でも「たしかに」と思うことがある。一人で、自分一人でやっている「ぬりえ」というものに関して、ぬりえしながらこのように考え、それをこうやって書き記すのも楽しい。まさきは、「お前一人遊び好きよね」と言っていた。そうなのだろう、一人遊びが好きなのかもしれないな。
でも思うけど、みんなこういうことは考えてるやろ、とも思う。意識しなくても。少なくとも感じてるはずだ、と思う。それをわざわざ言葉で言うてことをしないだけで。て言うかいそがしくてそぎゃんことしとるヒマはにゃーった、と言う人が浮かんだ。感じては流れて行く、考えては忘れて行く、僕もこうやって文に書かないと覚えてないだろうな。
いや、みんな意外と書いているのではないだろうか、そういう人もいるんではないか、僕の身近の人の中にも。このように文にしたりして、なんかSNSに投稿してるかもしらん。
「お前そがんことしよったらネクラになるばい」と言う友人まさきの声が浮かび、それを意見として聴き入れた。
それで、今日は、朝から面白いことがあった。朝、庭に作った畑を見たりうろうろしてたら、庭にネコがやって来た。このごろちょくちょく来るネコだ。庭に畝を作って、ジャガイモを植えていたら、その畝をほじくって小さい穴をつくり、そこへうんちをして行く。ジャガイモの近くにクサイチゴを植えている、その横を掘るので、クサイチゴの根っこが露出してしまう。根っこが乾かないように穴を埋め戻しておくと、気づいたらまた穴掘ってうんちしているのである。畝は土がやわらかいし、掘りやすいんだろう。気に入ったらしい。それでちょくちょくうちの周りで見かける。首輪をしているから飼いネコである。今日もまた庭にやって来た。僕がおい、かなんか声をかけると、こっちに来た。僕はクサイチゴは枯れてほしくはないが、生きものが庭に集まって来るのはウェルカムなので、ネコこっち来たので首の下辺りをさすった。そしたら、シャッ!とジャンプして、縁から家の中に入った。おいおいキミ、と僕は言った。「お前人んちに勝手に入んなよ」とこころの中で言った時に、ああそうか、ネコには人の家に勝手に上がっちゃいかんとか、そういう概念ないんや、と思った。目の前で、家の中でなんかその辺の隙間を覗き込んだり、匂いを嗅いだり歩き回ってるネコを見て、ああそうか、となんだか静かに驚きとともに、わかったと言うか、なんか静かに愕然とした。僕らは他人の家に勝手に上がって行くことは普通しない。嫌がられるだろうし、なんですかあんたは、となるし、普通しない。自分の安心スペースに、よくわからない要素が入って来てその安心空間が侵害される、壊されることを懸念するからだろう。これは身についているもので、相手がネコでも、今朝の僕のように、オイオイ勝手入んなよ、と思う人が多いだろう。ネコの出入り自由ですよ、知らんネコでもみたいなお家もあるみたいだが、多くの人はちょっと待てよてなるだろう。でも僕は以前、「サンカ」だったかな、日本の中にも、移動しながら暮らしていて、ものを所有するだとか、そういう僕らが持っている習慣、「常識」的感覚を持たない人達が、昔はいたというのをなんかで読んだことがある。どこかの村に移動して来た時に、その村の、畑の野菜を「勝手に」食べたが、盗んでいるだとか、わるいことしてるという感覚は無かったとか、そういう話だったと思う。それで思うのは、「お前勝手に上がって来んなよ人ん家に」というのは生得的なものではないということだ。僕がここに生まれて、よその家に勝手に上がったらいかんと、教えられたり周りの人のことを見たりして学んだからこういう反応が出てしまうのだ。移動して生活ってどうやって生活していたのかよく知らないが、移動するんだから家は無かったか、それとも移動させることの出来る家だったはずだ。…移動させる家があるなら「自分の領域」というのは生まれるのではないか…?
まあ、家に上がって好きなように歩き回るネコを見て、静かな衝撃を受けた。ちょっと瞠目した。そしてそれに「条件反射的に」ていうのかなあ、「オイオイ、」と反応した自分の、自分ちに対する感覚、普段意識もしない、生得的なものではないと思われる感覚が浮き彫りになったのを見て、なんだか見てはいけないものを見てしまったような、ヘンな気持ちになった。ネコに、「は?それあんた達だけの世界の話なんよ、知らんかったん?」て言われたような、いやネコは言わんけど、ネコにこっちに向かって言われたわけではないけど、ネコに置いてけぼりにされているような、なんだか間抜けな人だと思われているような、そんな風な感じがした。うーむ、ご近所からの使者であった。また来るだろう。
それでなんで、これがプリスクリプションに関係あるかと言うと、プリスクリプションと言うのは、わけて訳すと、前に、あらかじめ、書かれたもの、という意味になる。
「おいおいお前勝手上がんなよ」という、僕を駆動したものは、多分僕が生まれた後で刻まれたものだ。僕がオギャーと生まれて来たときにはまだ、僕は多分持っていなかった。オギャーは誰からも教えられてないだろう。遺伝子に刻まれたものだ。オギャーから始まる、いや、もっと前の、お母さんのお腹の中での胎動、からなのかどこからなのか、そういう辺りから僕らの動きを制御していると言うのか、秩序づけている遺伝子と、生まれた後、まわりの人たちからだとか、受け取った遺伝子、がある。後者は人間が長いこと生きて来て、積み重ねられたボーダイな経験の中で受け継がれて来たもの、割と最近出来たもの、いろいろあるだろうがそういった社会、文化、伝統みたいなものが生まれた後で刻まれて、外に出て来た赤ちゃんが反射的にオギャーといってしまうように「オイオイお前勝手上がんなよ」と言わせてしまう、それを僕は遺伝子の一種だととらえ、まとめてプリスクリプションととらえるようになった。去年辺りから。
和尚は興味の先には悟りがある」と仰るが、その興味っていうのはどこから来るのだろうか。生得的な、と、生まれた後からの、など、プリスクリプションが相互に関係し合って、オギャー、とか、オイオイ、みたいに、何かに反応させしめているのだろう。なんかがすごい気になる時、それは遺伝子が指し示している時なのでは。そっちへ行けちゅうことなんやろうか。和尚は行けと言う。行けとは言わないけど、そこへ向かって行くと悟りがあると仰る。…僕はそのように和尚の言葉を、15年越しくらいでとらえ直した。
昨日と繰り返しになるが、興味の先には、悟りなのかはわからないけど何かがあるんだきっと。ザクザク掘って行くと、何かが腑に落ちる瞬間が訪れるんじゃねえかなあ。
(続く)
