運命は処方されているというのを読んだ時に思い出したのは

以前会った和尚さんの話であった。

 


僕は以前、精神的に落ち込んでいたころ、お坊さんに話を聴いてもらったことがある。

落ち込んでいる僕を見て、通っていた鍼の先生が、友人の和尚さんに会わせてくれたのだ。

鍼の先生は、ショウちゃん、人間は、いい部分、プラスの部分も持っとるばってん、それと反対に、こう言っちゃなんだけど闇、の部分も持っとる。それを仏教では業と言うとたい。と言った。

和尚はそがんところば見てなんか話してくれるけん、会うてみらんね、今度来るけん、ということであった。

 

僕は和尚さんと会った。

 

和尚さんは、痩せていて、頭がとても小さく感じられた。

目は、なにか他の人が見ない所を見つめると言うか見据えるというか、そんな感じがして、僕はなんとか明王とかの像を思い浮かべた。しかし立ち姿、立っている様子から伝わってくるものは、やわらかく感じられた。白い着物一枚着て、白っぽい袴を履いておられたが、何故か裸でそこに立っているように感じられた。袴にはタバコで焦げた穴が空いていた。

 

和尚さんは、広島の真言宗の寺の住職さんである。広島の地元で、周りの人たちの相談を聴いたり、盗みがやめられない子供、暴走族の少年たちのことを見たり、いろいろとやっている人であった。

 

僕は和尚に話をしたのだが、自分が具体的に何に悩んでいるか、細かく話した時の記憶はあんまり無い。あんまり無いのだが、話したことは話したと思う。たしか。しかし和尚から、そこに対して、その悩みをどうすればいいかという話は、あまりなかったように覚えている。「君の問題はそこじゃない」ということだったのだろうか。僕はアドバイスをくれるまで訊こうとはしなかった。やはりそこじゃなかったのかもしれない。

 

しかし和尚はずっと話を聴いてくれて、自分の経験したことや、

まわりの人たちの話で、こういう人もいる、とか、聞かせてくれた。


和尚は話を聞いてくれていたが、僕は自分が何を相談したいのか自分でもはっきりわかっていなかったのかもしれない。

その様子を見てなのか、わからないが和尚さんは、

「興味の先には悟りがある」

と言った。

自分の興味がある方へ進んで行くと必ず悟りがあるもんじゃ、と。

和尚は、たしか飲み屋さん通いで悟りに至ったおじさんの話などしてくれた。

悟りと言うとブッダ、などを連想するが、和尚さんの言っているのは、

もうちょっと小さなものだと感じた。

それぞれの人が、それぞれの興味に従って、進んで行くと、その先にはなんらかの悟りがある、というような話だったと思う。

それぞれの人に、それぞれの悟りがある、というのが、答えはひとつではない、と言っているようで、僕は好ましく感じる。

僕は和尚が悟りと言ったことがどういうことなのか、突っ込んで訊くことはその時しなかったので、僕が和尚の話に対して持った印象が、和尚の言おうとしていることと合っているかわからないが。

 

悟りがなんなのか、悟った時にわかる、みたいなことを前になんかで読んだことがある気がする。宮本武蔵の漫画『バガボンド』で柳生石舟斎が言ってたんだったかな。忘れた。

 

和尚さんはお釈迦様の話もしてくれた。

釈尊は、この世にうつりかわらないものはない、ということはうつりかわらないということを悟られたんじゃと言っていた。そうして完全に解放されると同時に完全に安心したんじゃと言っていた。たしか。

 

ふつう、自分を守る壁などに囲まれていると、安心だが窮屈である。壁の外へ出ると解放感があるけど不安である。

しかし悟りというのは、解放感と安心感が共存する状態なんじゃみたいなことを、たしか仰っていた。

 

 

調べてみたら、バガボンドで石舟斎が言っていたのは、

「天下無双とは ただの言葉じゃ」

であった。

手元に本が無いのではっきり話の流れがわからないが、

天下無双がどういうものかわかるのは、天下無双になった時じゃ、

みたいな話をしていたんじゃなかったっけ。

だから天下無双という言葉を知ってても天下無双はわからない、

天下無双という言葉知ってることは、無駄ではないけれども、

それはただの言葉である、

みたいな話を、たしかしていた。漫画の石舟斎は。

 

これといっしょで悟りがどんなものかは悟ってみないとわからないということだろう。

しかし、興味、と、解放感、と、安心感というのはなんらかの、ヒントと言うのかガイドであるらしい。和尚さんによると。安心するっていうのが大事だと言ってた。

僕は安心してフルスイング出来る、みたいなのを思い浮かべた。

 

 

僕は悩んだままであったが、

「興味の先には悟りがある」

という和尚の言葉が心に残った。

 

 

それで僕は、「運命は処方されている」というのと

和尚の話をてきとうに混ぜ合わせて、

「自分に対する処方箋は自分の中にある」

という言葉をこしらえた。

自分の興味は、自分の中にあるなんらかの問題、解放されていないもの、不安に思っていることなど、そういう要素を反映している。…はずだ、と考えてみた。

 

自分は何に興味があるか…。

絵を描くのが好きである。とか、植物とかハチとか、けっこう好きである。

逆に嫌いなものは何か。…。

 

多分、ここで振り返ってみなくても、既にやっていることだろう。

もうやっていること、意識してやってることでも無意識にやってることでも、

そういうのの中に、なんて言うのかわかんないけど「興味」などの発露があり、

その中である方向への力が解消されたり増幅されたり、運動しつつ生きてるんだろう。

 

まあ、いろいろやってれば、そのうちあっ!これは…!ていうのが見えて来るのだろうか。

僕のイメージでは、なんか「ポケット」みたいなものだ。

ドラえもんのポケットみたいなのが、自分の斜め後ろ辺りに浮いている。

そこに入ると、ふっ、と一息つける、みたいな、そんなのを想像する。

ポケットは生きて行く上で自分にとってセイフティエリアになり得るだろう、

生きてくのを助けてくれるだろう、と想像する。

 


和尚さんの話をわかってないかもしれない。

だけど自分の道を行けって言っているんではないか。

 


自分なりに好きなように考えたことをまとめると、

「自分に対する処方箋は自分の中にあり」、

「処方箋が導き出されるもとになっているなんらかの働き、によって興味が生まれているので、それに従って進んで行くとポケットがある」

ということだ。どういうことだそれは。笑ってしまった。


…いや、もういちどたどってみると本当かどうかは置いといて言ってることはわかる。


 


ポケットならもう、既に、ポケット的な存在が僕にはあるではないか。

絵を描いている時である。ぬりえをしている時間である。

ぬりえなんか特に、ほとんど何も考えなくていいので、ついついだらだらとやってしまう。

ずーっとやっている。

これは僕にとっていいものなんだろう多分。

 

前書いた「塗り絵」ていう文を読み返してみると、

 

シフクの時間、落ち着く時間、

このぬりえしてる時に、なにかがはき出される

と共に、なんかが充電される。

おなかが落ち着く。

 

と書いてる。

そう、そんな感じだ、

もうこれで十分なんじゃない?と思って来た。

 

ずーっとぬりえを続けていると前はどーーも引けなかった線が引けるようになって来たりする。激しい思い込みの世界かもしれないが、たいへんおもしろい。

ポケットも変容して行くのだ。

 

 

まあ、いろいろやってみようと思う。




とにかく、和尚は

「興味の先には悟りがある」

と仰った。

興味の先に「悟り」があるのか僕にはわからないが、

「何か」はあるはずだ。



(続く)