最近のニュースで、教育について考えることがあります。
子どもの教育に限らず、人と人の関わりについて。
私が中学3年生の時の担任故М先生は、今でも心の恩師と尊敬しています。
先生は坊主頭で、ご実家はお寺。
いつも柔和に微笑まれていて、怒られた姿はほとんど覚えていません。
新学年が始また日の、私たちのクラスは賑やかで、騒がしいばかりでした。
朝のホームルームが始まっても
大声で騒ぐクラスメートが多くて、なかなか静まりませんでした。
何人かは先生が教室に入ってこられたので、近くの仲間に注意するのですが
「優しそうな先生」ということもあって、すっかり甘えて静まりません。
私はヒヤヒヤしながら、じっと先生を見ていました。
いつか、優しい先生も堪忍袋の緒が切れて、怒鳴るのではないかと・・・
先生は微笑みながら、教卓に椅子を持ってきて微笑みながら目を閉じました。
10分程教室は騒がしかったのですが
徐々に静かになり、次第に私語をする人はいなくなりました。
すると先生は目を開けて、「では、始めましょうか。」
とおだやかに朝の連絡を始められました。
私は、どうして先生は他の先生のように、
大声で怒ったり、注意したりしないのかな・・・と思いました。
けれど日を追うごとに、クラスは朝の時間が静かになっていったのです。
「先生に注意されたから」「先生に怒られたから」静かにするのではないのです。
先生は何もおっしゃいませんが
「静かにしなければならない」と、生徒が自ら学んだのです。
「学」とは「教え」とは、本来そうあるべきです。
誰かのせいでもなく、自ら学び取る姿勢。
それを教えるのに、怒鳴る必要も、体罰をする必要もありません。
「優しそう」と人から言われる人も多いと思います。
けれど「あの人は優しそうだから~してもいいだろう」
と考えるのはその人自身の問題です。
けして、優しそうな人の問題ではありません。
もし、ご高齢の方が詐欺にあったとしても
「付け込む隙があったから、犯罪に巻き込まれた」と非難するでしょうか。
「和顔施(わげんぜ)」とは、
笑顔は人の心を救うという「無財の七施」のひとつです。
高田好胤「心~いかに生きたらいいか」より
素敵なNさん宅の、ハクモクレンが今年も咲きました。












