「外国人は嫌。でも、我が子には海外へ行ってほしい」
最近、ちょっと年下、いわゆる氷河期世代の友人と久しぶりに会いました。
若い頃の同僚です。
オーストラリアの大学に留学していて、就職ではかなり苦労した人。その後は、希望していた分野の周辺で長年、非正規雇用で働いてきました。
外国人(日系人)の方と結婚し、ご主人は政府系団体のやはり契約社員。
夫婦二人と長女の3人で暮らしていて、長女を私立高校に通わせる余裕はある。亡くなったおばあ様から相続した関西の住宅に住んでいて、多少の遺産もあるかた。
久しぶりに会ったら、長女さんがニュージーランドの大学に進学することになったそうです。
「費用は1年分ならなんとかなる。あとは奨学金を頑張ってもらわないと…」とのこと。
まあ、しょうがないよね。
なかなか貯金もできないから、老後も不安だと言っていました。
それも、よく分かります。
話がなんとなく「外国人」の話になりました。医療費は負担すべきじゃないとか、外国人の学生は減らせとか。。。
外国人の医療費や教育費を、日本がどこまで負担するのか。制度としてきちんと考えるべきだ、というのは私も分かります。
制度の公平性について考えることは必要でしょう。でも外国人をひとくくりにして語ることは、別の話だと思っています。
その友人から出てきたのは、
「外国人(C国やイスラム教徒や南アジアの人等いわゆる開発途上国の方々)のために、自分が損をするのは嫌」というニュアンスの話でした。
そして、特定の国の人についても、かなり一括りにした批判的なトーン。
ちょっと驚きました。
というのも、その人自身、若い頃に海外で暮らした経験があります。
外国人として見られることもあったでしょうし、差別された経験もある。
そして今度は、自分の娘がニュージーランドで暮らす。
もし娘さんがそこで、「日本人だから」と一括りにされたら、どう感じるんだろう。
もちろん、ニュージーランドで日本人の娘さんに嫌な思いをしてほしい、なんて思っているわけではありません。
むしろ逆です。
娘さんの周りには、国籍や出身地だけで人を判断しない人たちがいてほしい。
「この国の人はこう」と決めつけず、一人ひとりを見る人達がいる環境で勉強して欲しいですよね。
さらに話していると、その友人が、
「モンゴルの草原で、テント生活をしている遊牧民を見に行きたい」
と言いだしました。
「開発される前の、本当の遊牧民の生活が見たい」と。
うーん。
「本当の遊牧民の生活」って、今どこまで残っているんでしょう。
でも、彼らだって、きっと裕福になりたいだろうし、観光客が来てお金になるなら、そうすべきでしょ。
「だから、なるべく早く行きたいの」
とのこと。
……なるほど。
ここで、なんとも言えない違和感が残りました。
ものすごく単純化してしまえば、
身の回りには外国人がいてほしくない。
でも、娘にはニュージーランドで国際的な経験をしてほしい。
そして自分は、外国の「開発されていない、本来の文化」を見に行きたい。
この3つが、同じ人の中に並んでいる。
私自身だって、矛盾したところはいくらでもあります。だから、その友人を「矛盾している」と責めたいわけじゃないです。
ただ、昔はもう少し、口にすることをためらうような「嗜み」があったんじゃないかな、と思ったのです。
たとえば、
「某国が嫌いだから、餃子は食べない」
「某某国が嫌いだから、キムチは食べない」くらいなら、まだ筋が通っている(笑)。
食べなければいいだけですから。
でも、人について語るときは、もう少し慎重でありたい。
私は仕事柄、いろいろな国籍の人と働いてきました。国や文化によって仕事の進め方も違うし、価値観も違う。
「この国の人はこういう傾向があるな」と感じることもあります。
そして、海外で働いている人たちの中には、表向きはとても上手に国籍や人種について語る人もいれば、裏ではかなり率直なことを言う人もいます。
だから、きれいごとを言いたいわけではありません。
この友人は日本にいる自身以外は、ご主人も日本で外国人、お子さんも海外で外国人なのだから、もっと「外国人」とひとくくりにすることに慎重でもいいんじゃないかと感じたのです。
それだけ、自分の希望が通りづらかった仕事や生活への不満が深いのかもしれませんが、それは外国人のせいじゃないわけです。
やられた相手とやり返す先が違ってるんじゃない?との思いが残ってます。