パリで起きているのはテロじゃなくて、市街戦なんじゃないかしら。
今日一日じっくり考え、思い出したのは「歴史の終わり」。
フランシス・フクヤマさんが89年に書いた名著です。
「歴史の終わり」が説明していたことを要約してみますね。
「人間を動かす大きな動機は、財産や地位での他者からの認知(認められること)にあり、自由な資本主義と民主主義は、認知を得るためのシステムとして最適だから、共産主義より優れていて、それに代わるシステムはない。歴史を動かしてきた社会システムの変遷は自由な資本主義と民主主義に終わった」
です。
ベルリンの壁が倒れたとき説得力があったんですよ。
でもフクヤマさんは、民族対立に、この自由主義的資本主義と民主主義は有効ではないかもと加えていてね、すぐあとセルビアやコソボで民族浄化(宗教対立による殺し合い)が始まったんです。
テロリストは悪です。 パリで殺戮を行った人は絶対的に悪です。 セルビアやルワンダで起きた虐殺や、ホロコースト、911と同じく悪です。
ただそこに至る憎しみや鬱積がなぜ発生したのか考えたいのです。
人々が不当に貧しい状況に置かれていると感じたり、宗教的に差別されていると感じたりしたとき、わかりやすい標的への攻撃で、わかりやすい達成感を得たいんでしょうね。
仕事で、私は「インドや東南アジアで、署名した契約書を守らないのは許せない!」とか「どんなにノラりクラリされても、もし賄賂を要求されても、絶対払わないで取引をやめる!」とか強い対立精神でコミュニケーションを行うことがあります。 会社から給料をもらっている以上当然の主張です。
でもね、言われたほうは、「先に発展した国の傲慢な主張」だったり「政治や社会が悪いのに、なんで私がそのギャップを埋めなきゃいけないの?」といった、不満をもつかもしれません。
その国のエリートは西欧とつるんで、美味しい思いをしているように見えるかもしれませんよ。
江戸時代の日本人みたいな感覚の人たちが中東にいるとして、その人たちと世界がインターネットでつながり、西欧の政治家のメッセージを聞いたとき、彼らがどう感じどう行動するのかを感じる感性がなさすぎじゃないかしら。
「歴史の終わり」に戻ります。 先に先にと行く人たちにとって、自由主義的資本主義と民主主義は究極的な社会システムなのでしょう。
でもね、西欧の100年前200年前の考え方で生活している人たちから、私たちがどう見えているのかを考える感性が長い目で、争いを減らすのではないでしょうか。
昨日、松代を通りかかった時、同僚が「ここって第二次世界大戦末期に本土決戦を想定して、大本営をおくのに掘ったトンネルがあるのよ」といいました。
そこからいろんな話になったんですが、本土決戦になってたら、今でも中央アルプスや北海道の山の中に日本軍のテロリストとかいたかもねって。
アメリカに占領されなかったら、日本だってわかったもんじゃないと思います。占領されててラッキー。
89年に自分が感じていた、希望や楽観性と市街戦のパリを埋めるのは、100年前の価値観を大事にする人たちが何億人もいる事を認識して、ありのままの(テロや暴力じゃないですよ)考え方を尊重することなんでしょう。
テロを容認しないということと、テロにいたる背景に思いをはせるということは両立するでしょう。

