戦後70年にまつわるメディアの特集や、安保法制の騒ぎで、第二次世界大戦について考えることが多くなりました。
私が思い出す、祖父母の年代の人に聞いた話しを書いておきましょう。
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先週墓参りに行き、墓碑の祖父の誕生年を見たら、明治38年とありました。終戦の年に40歳です。辛うじて戦争に行かずに済んだひとです。
食べものがなかったこと以外、大戦について触れたことはありません。祖父母も叔父叔母も食べものの話しで、いつもお盆は盛り上がってました。
多分、満州事変の頃の話しと思いますが、「中国で日本が勝ったと提灯行列があったんだよ、先頭に支那そば屋の中国人が立って、天皇陛下万歳!っていいながら歩いてた。ありゃあ、官憲にたたされたんだな。どんな気持ちだったかと思ったな」と一度いっしょに寝てた布団の中で、7-8歳の私に話したことがあります。
意外なことを聞いたせいか覚えてます。
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高校のときの家庭科の先生が、朝鮮半島からの引き上げ者でした。20歳ぐらいでお子さんを抱えて逃げてきた、艱難辛苦を授業中よく話してました。食べものがなく、先が見えない状況でひとがバタバタ死んでいく中、なんとしても帰ると頑張った話しでした。
ナマイキな盛りの優等生でしたから、料理も裁縫もできるのに何でおそわらなきゃならないの?と出席をとったあと、ソロリと先生の目をかすめ外にでることがよくありました。
7-8年前に山崎豊子の不毛地帯を読んで、数十年振りにその先生を思い出し、まじめに話しを聞かなかったことを申し訳なく思いましたね。
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社会人になって初めて勤めた会社の社長は、シベリアの抑留経験のある人で、スピーチや社報で抑留経験を語っていました。「あ、あの先生と同じ」ぐらいにしか思えなかったんです。頑健なかたで、大学繰り上げ卒業で兵役についたそうで、若くて頑丈で良かったねと、ボンヤリ考えた記憶があります。
80年代後半で戦争体験は遠い話しになってたんです。学校では習わないしね。祖父母の兄弟で戦争に行った人はほとんど戦死し、1人だけ海軍の気象官から復員した母方の大叔父は、何も語りませんでした。
私が子どもの頃、「田舎」と名のつくところにいくと、仏壇の上の鴨居には、黒枠で軍服姿の写真が1-2枚かかっている家が多かったです。
200万枚以上あんな写真はあったんでしょうか?もう写真は皆処分されつつあるんでしょう。
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母方の祖父母は戦争で財産を失い、戦後祖父は遠方での仕事に家を出て20年後ぐらいに失意のまま亡くなり、祖母は子どもをかかえ大変な苦労をしたそうです。
亡くなる少しまえ、平成になったかならなかったかの頃、一番下の妹のご主人が妻である祖母の妹を「千代子、千代子」と呼ぶのが羨ましいと、ふと洩らしました。祖母の命日や終戦の日に彼女が失ったものに思いをはせます。
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私が子どもの頃はお盆に親類が集まると、自然と戦時中の話しになりました。いまはもう話す人が減り、集まる機会もあまりないし。
ありきたりな言い方しかできませんが、自分が話しの価値がわかるようになったら話せる方々はいなくなっていました。
東日本大震災以上の厄災のなかに、70年まえ人々がいたことを、私たちは自分たちのこととして理解できると思いたいです。
毎日は忙しいですが、立ち止まっで聴くべき話しはまだ残っています。