みんさまこんにちは。
わたしが翻訳に携わった番組の放送予定です。

今夜9/10(火)20:00~ NHK BSプレミアム 世界ふれあい街歩き ペルージャ編
(再)9/17(火)8:00~

実を言うと、取材されたインタビューの中でペルージャのアクセントが強く
わたしは一部しかお役に立つことが出来ませんでした。
あとはネイティブ翻訳者に代わっているので、部分的に携わったという感じです。
ご視聴頂ければ光栄です。

番組にちなんで、わたしとペルージャの想い出話しを書きたいと思います。
2000年を挟んでの数年間、わたしは日本の総合商社のミラノ支店で勤務していました。
それ以前にアパレル業界で培って来た知識と語学を活かすことの出来る繊維部の業務を
与えられました。
社内での会話は日本人の役員数人とは日本語で、イタリア人スタッフとはイタリア語で
両方が一緒の時は英語で進められていました。
役員達には「日本語を話すイタリア人」と思われ
同僚達には「役員達の手下」と思われ
板ばさみの状態でひじょうに辛かった数年間でした。

それとは対照的に、もともとイタリアのニットに魅せられ、生産現場を見たいという思い一心で
渡伊したわたしにニットの生産現場に足を踏み入れることが出来るチャンスが巡り
心躍る思いでいっぱいでした。

イタリアのニットウエアの産地を「松・竹・梅」に分けるとすると
ペルージャ(ウンブリア州)・カルピ(エミリア・ロマーニャ州)・プラート(トスカーナ州)となります。
それぞれの産地に生産法と製品の特徴があります。

生産分野に興味があるならば、当然のごとく「松」の現場を見たいわけで
日曜日夕方ミラノ中央駅から特急電車に乗り、5時間かけて23時頃にペルージャへ到着。
または、ミラノのリナーテ空港からプロペラ機で1時間ちょっとかけて毎月出張していました。
ミラノから1人で移動して、現地で日本から入って来たお客様達と合流し
ニット工場でサンプルのチェックをしたり、生産の打ち合わせをしていました。

ペルージャを代表するニットブランドは、ルイーザ・スパニョーリと聞いても
日本ではすぐにはわからないと思いますが、世界的に有名なチョコレートBaci(ペルジーナ社)
のアイデアを出した人と言えばわかると思います。
ルイーザはペルジーナ社の共同経営者でもあり、共同経営者の息子の愛人でした。
(画像はネットからお借りしました。)

$イタリア的生活で人生を3倍楽しく



ペルージャのチェントロは1時間もあれば充分に見て回ることが出来るぐらいの広さです。
お客様達を案内出来るぐらいのクラスのホテルとなると数も限られてしまうので
いつも最高級とされるホテルブルファーニへ泊めさせてもらっていました。
ここは中田英寿氏も宿泊していたホテルです。
ナカタスイートと呼ばれ、かつてはエリザベス女王も泊まられた部屋があります。
(画像はネットからお借りしました。)

$イタリア的生活で人生を3倍楽しく



チェントロを出ると交通手段は車のみなので、私達の滞在中は運転手を頼んでいました。
偶然ですが、わたしの運転手は中田氏と同じ運転手でした。
当時、ペルージャ人達が日本人をみかけると「ナカタ、ナカタ」と呼ぶほど
彼は大活躍で人気者でした。
東京から来ていた田中課長は「僕は田中なんだけど、字が逆さまね。」
とイタリア人に言い返して笑わせていました。

このようにわたしの商社時代はお客様の接待のために、高級ホテルに泊まり
ミラノをはじめ出張先の高級レストランへ行く機会を得ることが出来ました。
そこで頂いたお料理の知識が今のわたしの日常で活かされているわけです。

上にも書いたとおり、社内では精神的にたいへん辛い思いをし
一方、外では次から次に刺激的な経験をするという
天国と地獄を行ったり来たりしているような日々でした。

ウンブリア州を車で走っていると広大な丘があり、その途中途中に山岳都市
を見つけることが出来ます。
ペルージャ、スポレートやアッシジが有名です。
ペルージャは、もともと紀元前エトルスキ人の街があった所で
現在の街は古代の街の上に積み重なるように作られています。
この古代都市は今でも残されており、現在の街とエスカレーターで結ばれています。

今夜の放送ではその様子を見ることが出来ると思います。
わたしも楽しみにしています。





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