おはようございます。
早朝のゴミ拾いは、今日で232日目。
トータルの継続日数は、276日目。
今朝の気温は、26度。
天気は曇り。
アレクサ予報では、晴れ時々曇りで一時雷雨との事。
今朝は、幹線道路[B]でゴミ拾い。
2022-08-05に回収したゴミ
今朝は、折り返し地点さきにある大型トラックの駐車スペースのゴミは無し。
ただ、その先の地点で、ティッシュの箱など回収。
最終的なごみの量。
多くもなく、少なくもなくというところでしょうか。
袋ゴミの中を確認
今朝は袋ゴミ無し。
ゴミを水洗い
いつものように分別、清掃、水洗い。
イジメの記憶
昨晩、お酒を飲んだ事で、PTSD的に、過去の記憶がフラッシュバックでよみがえり、また色々口を書いたりしていました。
お酒を飲むと記憶をなくすという人が世の中にはおられるようですが、自分の場合は、記憶は残っており、何より事実として過去の出来事は思い出すことができますので、意図的にせよ、フラッシュバックにせよ、どちらにしても記憶は蘇ります。
過去のトラウマ的体験は、消えることがなく、一生苦しむ人も世の中には多いと思います。
苛めというのは、人を人と思わないような扱いを受けて、自己肯定感を極限まで奪い取るような行為であるので、苛めを受け続けていけば、自分の生命の存在が危ぶまれ、最後には言うまでもなく、「死」を迎えます。
これは歴史みればわかることで、学校でのイジメによって、多くの子供たちが、自ら命を絶ち、この世を去っていますし、その数をすべて集計すれば膨大な数になるのではないかと思います。
コロナが流行っていますが、イジメによって命を失った子供の数の方が、おそらく多く、コロナ以上の殺傷能力や破壊力があるのが、苛めという行為であると思います。
驚くべきことに、10代にも満たないような子供が、それを行うのだからたまりません。
ゴミをポイ捨てする人が、世の中から居なくならないように、イジメも決してこの世から無くなることはないと思います。
過去にも書いたかもですが、ゴミをポイ捨てする人が、過去自分をイジメていた人とどうも重なって見えることが屡々あります。
幼稚園ぐらいからずっと学校というものに良いイメージがなく、
「学校は、合法的に殺人が許容されている場所である」
「学校は、刑務所」
というのが、自分の学校に対するイメージで、成人式も、同窓会も当然のことく参加しておらず、参加する理由やメリットは何一つないです。
不登校気味になりながらも、父親に無理やり学校に放り込まれ、命がけで通っていて、学校の授業も頭に入らず、いい思い出がないですね…。
過去書いた通り、幸い、イジメをしていた相手が、停学になりかろうじて卒業できたというかんじで、もしそれがなければ、学校をやめていたのは自分か、それを許されなければ、自殺をしていたかもしれないです。
「鬱」状態というのは、幼稚園の頃から、自分にとってはデフォルト属性で、その後の人生にずっと付きまとっているので、
「鬱というのは、自分にとっては当たり前の感情で、すぐそばにあるもの」
という認識です。
当然のごとく、薬などの治療で、改善できる物ではないです。
唯一、治す方法があるとしたら、
「記憶喪失になること」
だとは思います。
昔の音楽を聴くと、当時の思い出がフラッシュバックでよみがえるように、自分にとっては、何かの引き金があれば、そういう過去の嫌な体験が思い出されて、苦しむことになります。
ただ、幸いなことに、時間がたてば、嵐のような苦しみも、過ぎ去って平常心を取り戻せるので、嵐が過ぎ去るのをじっと堪えて待つしか方法はないと思います。
ただ、そうやって周期的に訪れる苦しみに耐え抜いた先に、幸せがあるわけでもなく、なんとも絶望的なことで、幼稚園の頃に首をつって死んでおけば、ここまで苦しまなかったのではないかと思うぐらいです。
不登校以降、井戸の底に突き落とされるような苦しみを味わい
「そこから抜け出すのか?」
或いは、諦め
「井戸の中で蹲り、何もせず死ぬのか?」
生きようと決心して、努力に努力を重ねて、今の自分や、この部屋があるのも事実で、もし、諦めて井戸の底で蹲っていたとしたら、この部屋は、物凄い数のゴミで埋め尽くされるゴミ屋敷になっていたのは間違いないです。
ただ、そうやって生き抜いてきてみて、果たしてよかったのかというと、いささか疑問があり、心の中は依然として苦しい状態が続いており、無理をして冗談を言って笑って過ごすのも悪くはないですが、心の奥底に眠っている地獄は、消えることもなく、まるで、癌細胞のように心と体を蝕み、命を捥ぎ取ろうと、牙をむいてきます。
その魔物を、見て見ぬふりをしてみたり、無視をしてみたり、別のことで気を紛らわせたりしても、いつか正面から襲い掛かってくるもので、その毒牙にやられた時には、お酒を飲んで寝ることしかできない、無力すぎる自分だったりもします。
その毒牙に打ち勝って、前に前進することもあり、それはどういうときかというと、不登校後の井戸に突き落とされる厳しい現実を目の当たりにして、「生きよう」と決心して、命がけで前に進んでいた時で、あの頃の自分にはもう戻れないにしても、今のゴミ拾いは、わりとそれに近い、行為なのではないかと思うこともあります。