おはようございます。
今朝の四国は、冬らしい寒い日が続いています。
一部の山では紅葉で赤色に染まっていて『目の保養』になります。
それとは対照的に、ゴミに関しては、お世辞にも「目の保養」とはいえないですね…。
昨日もゴミ拾いを継続。
2021-12-14に回収したゴミ
昨日回収したのはこれだけでした。
遠くから見るとマスクかと思いましたが、紙のゴミで、道路脇にも落ちてたのを一緒に回収。
そのまま燃えるゴミで処分させていただきます。
『ゴミ拾い』と『歎異抄』
不法投棄地帯も綺麗になり、新規に捨てる人もいない為、ゴミが増えておらず、財布を落とした地点も、偵察していますが、ゴミは増えていないようです。
先日の生ごみ地帯は、財布を落とした場所から、少し走ったところにあるので、同じ人が捨てた可能性はないとは言えないです。
このブログを書き始めて、財布を盗まれるなど、結構、色々なイベントが発生していますが、VEフランクルの「夜と霧」ではないですが、何故生きるのかを問うのではなく、逆説的に「どう生きか?を問われてる」のかもしれず、色々な出来事を経験しながら、学ばされているのかもしれません。
昨日の記事通り、一貫して、ゴミを捨てる人を悪とは決めつけず、もしかしたら、「善」かもしれないという視点ですが、財布の盗難などにあうと、心が揺らいできます。
自分は、そんなにできた人間ではありません。
仏教に『歎異抄』というのがあり、父親がこの本を置いていたので借りて過去一度だけ読んだことがあります。
浄土真宗の宗祖・親鸞の弟子・唯円によって書かれた仏教書みたいです。
有名な一文は
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
「善人でさえ救われるのだから、ましてや悪人はなおさら救われる」
という意味、誤解を生む表現で、間違って解釈されることがおおいようですが・・。
自分も間違えているかもしれませんが、言い換えると、
「ゴミを拾う人でさえ救われるのだから、ましてやゴミを捨てる人はなおさら救われる」
という解釈で、ゴミを捨てる人を見てたりします。
こういうことを書くと、ゴミを捨てることを勧めてると解釈されて誤解されそうですね・・・。
『歎異抄』を書いた唯円という人物は、信仰心のかけらもない荒くれ物だったようで、妻の方は、逆に熱心な浄土宗の信者で、親鸞からもらった「お名号」を恋文と勘違いして、妻を切り殺し、家の裏の竹やぶに埋めてたようですが、別人だったようで妻は無事。
それ以降、悔い改めて、親鸞の弟子になったようです。
ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくるラスコーリニコフに似てますね。(こちらは小説で実話ではないですが…)
「罪と罰」の大きなテーマは「復活」で、殺人を犯したラスコーリニコフに心の救済があるのかどうかが、個人的なこの小説の見どころ。
『ソーニャ』が、唯円の妻のように見えなくもないです。
個人的に、ゴミを捨てる人を、「ラスコーリニコフ」や「唯円」のような視点で見てたりします。
じゃあゴミを拾っている自分は何かというと、物語の後半に出てくる、「ラスコーリニコフ」や「唯円」ですね。
少し話は変わりますが、本を読むメリットというのは、色々あるのですのが、その中の一つで、外に出て人と関わる際に、類友の法則で、同じような読書家の人と繋がりやすくなります。
図書館で本を読んでるような人の知り合いが結構、いたりします。
過去記事で書いた、経営者の女性に関しても、こういう本の話を良くしていて、話を聞くと、夜中の2時まで本を読んでるという話を聞いて、瞳をのぞき込むと、目が赤くなっていました。
本を読んでるかどうかは、会話をするとすぐに分かります。
不登校関係で人とつながった事があり、その中の一人で、高知県で不登校問題に過去熱心に取り組まれていた、元教育長の大崎博澄さんと知り合いで、やや古流が深く、コロナ前は、ちょくちょくお会いして、居酒屋で一緒にお酒を飲んだこともあります。
大崎さんは本を出版されていて、購入して読んでます。
写真の左側の二つ。ほかにもありますが…。
お会いすると、いつも本の話をするのですが、
「貴方は、探求者」
といわれたのを、今でもよく覚えています。
ゴミ拾いも同じで、自分にとっては、探求ですね・・・。