おはようございます。

 

今朝の四国地方は、昨日までの悪天候が落ち着いて、穏やかな気候に戻っています。

空を見上げると、かすかな雲が見える程度で、気持ちのいい青空が広がってます。

 

悪天候も悪いわけではなくて、そういう日があるので、穏やかな日の有難さがわかったり。

 

良い事ばかり続くと、それが当たり前になってしまって、逆に悪くなってしまうというのも良くある話です。(笑

 

松下幸之助氏の言葉を借りると。

 

逆境もよし、順境もよし。
要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。

 

 

逆境が来ると卑屈になりがちなのですが、

逆境の中でしか、学べないことも多いですし、順境の中でしか学べないこともあって、両方があるから『中庸』の大切ががわかります。

 

松下幸之助の本はかなりの数読みましたが、一番重要視されてるのは「素直さ」みたいです。

素直さだけで、一冊の本を書いてるほどで、それも一読しています。

 

 

 

 

 

道をひらく」は、個人的な愛読書で、トイレにおいて、読み返しています。

 

 

冒頭から、堅苦しい、書き出しになってしまいました。(笑

 

 

昨日はゴミがそんなに落ちてなかったので、そのせいで今朝の作業も早めに終わったせいで、日の出前の写真です。

日が昇る前のこの光景も悪くないです。

 

 

 

今朝の室内の気温は、8度で、ここ最近の中では、最低気温。

外の風を浴びると、肌が少し痛くなるぐらいでした。 

 

 

 

2021-12-1に回収したゴミ

 

昨日、回収したゴミはこれだけでした。

紙屑が落ちてるのが見えて、それを回収した後、周辺を探すと、別のゴミを発見してビニール袋に回収しています。

 

 

すべて燃えるゴミなので、そのまま今回は処分したいと思います。

 

今回は、ブログを書き始めて初?となる、水洗いをする事がないゴミのみでした。

 

 

減り続けるゴミ達

 

捨てる人がいなければ、必然的にゴミが減るのは、いつも書いてる事なのですが、ゴミはやっぱり少なくなってきています。

ポイ捨てポイントでも、ゴミが見当たらず、捨てる人がいなくったのか、それとも、拾う人が増えたのかわからないです。

なんとなく、感覚的な意見ですが、拾う人が増えたのではないかと思ったり…。

道端に落ちてるゴミに気づく人は、結構多いと思いますが、拾う人は少ないと思います。

 

拾わないけど、気づいてはいるんですね。

 

それで、いつもゴミが落ちてる場所に、ゴミが無くなってることに気づく人もまたいると思います。

 

「ゴミがある時」と「ゴミが無い時」の、両方見てる一部の人が、今度は、ゴミを拾う側に回るのではないかと…。

 

勝手な想像ですが…。

 

余談ですが、「ゴミ捨てる人のお陰で救われた」というタイトルで、記事を書いて下書き保存してる物があるのですが、それもまた公開しようかと思ったりはしています。

 

これは、冒頭で書いた松下幸之助の「逆境もまたよし」と少し似ています。

 

 

そもそも「ゴミ」とは何なのか?

 

普段、何となく拾ってるゴミですが、そもそもゴミとは何なのか?という事を、あまり考えたことがありませんでした。

 

ウィキペディアをみると

 

ごみ(ゴミ、芥、塵、埖)とは、

  • ものの役に立たず、ないほうが良いもの。利用価値のない こまごました汚いもの。「ちり」「あくた」「ほこり」。
  • つまらないもの。「ごみ情報」などと使う。
  • 濁水にとけて混じっている泥。

「くず」や「かす」は、ものを削るか切るなどによって残った部分を指すため通常は「ごみ」とはいわれない(パンくず、絞りかすなど)。

 

 

更に概要欄:

 

「ごみ」は、広辞苑にあるように「ものの役に立たず、無いほうが良いもの」である。

古代から『ごみをどのように処分するか』ということは、人間を悩ませてはいたが、特に モノの大量生産がおこなわれるようになってからは、ごみが大量に発生するようになり、その処理の問題は年々深刻になっている。当初、「ごみ」は、基本的に、燃やしたり、埋めたりして処分されてきた。だが、その量があまりに増えたこと、また、燃やすと有害なダイオキシンが大気中に放出されてしまうゴミ、埋め立てても環境に悪影響を及ぼすようなゴミなどが出現したことが状況を悪化させている。 →ごみ問題

なお、ある時ある人にとって役に立たず、「ごみ」と見なされるものであっても、状況が変わり利用法が見つかると、「ごみ」ではなくなる、ということもありうる。また、他の人にとっては役に立ち、その人にとってはごみでは無い、ということもありうる。

つまり、別の利用法や利用できる人を見つけることで、「ごみ」が「ごみ」でなくなることになる。たとえば、ほかの何かを作るための原料として利用すれば、「ごみ」は資源となる(リサイクル)。たとえば日本では、江戸時代から、使い終わった紙を捨てたりせず、回収して、紙として 漉き直して、ちりがみなどとして利用するということが行われていた。紙に限らず、江戸では、さまざまなものがリサイクルされていたことが知られている。

また、それを利用できる人を見つけることができれば、「ごみ」を「ごみ」でなくすることができる。たとえば、リサイクルショップで買取ってもらう、オークション、フリーマーケットに出品し、買い手や引き取り手を見つけ、再利用することができれば、ごみでは無くなる。これを別名「ばぶ」とも言う

 

 

 

 

ゴミとは「ものの役に立たず、無いほうが良いもの」みたいです。

 

ゴミにもし、人のような意識があったとしたら、酷い言われようです。(笑

 

ポイ捨てゴミの定番、「空き缶」を例にとると、中の人の役に立つ「液体」がゴミではなくて、外側の「アルミ」が人の役に立たない物と解釈できるかもしれません。

 

でも、アルミが無ければ、中の液体を運ぶ事が出来ないわけで、決してゴミではないです。

 

アルミに関しては、リサイクル可能なので、捨てた人にとっては「ものの役に立たず、無いほうが良いもの」かもしれませんが、リサイクル業者にとっては、お金に変わる価値のある物だとは思います。

 

再利用することができれば、ごみでは無くなる。これを別名「ばぶ」とも言う

 

「ばぶ」という言葉は、知りませんでした。。

 

興味を持って検索してみましたが、バイク用語とかがひっかかり、詳しい情報はなかったです。

 

 

ゴミ=ものの役に立たず、無いほうが良いもの」というのは、人の目から見た視点で、尚且つ、主観的な意味合いが強いので、ゴミを見る人によって、その価値観は、大小さまざまに変化するともいます。

 

例えば、発明家が、アイデアが思い浮かばず疲れ果てていて、道端を歩いていて、踏み潰された空き缶を見た時に、発明のアイデアを閃くかもしれません。

その時、「空き缶」は、多分、発明家にとって「宝物」のように思えるかもしれません。

 

それで、その発明が成功したりした場合は、道端の踏み潰された空き缶を、神棚に飾るようになるかもしれません。(笑

 

 

大げさな例え話ですが、ゴミというものは、人によって天と地、雲泥の差があるぐらいに見え方が違うかもしれません。

 

 

もっと広い意味でいえば、漫画の「寄生獣」みたいに、地球という視点から見ると「人」という生き物が、「ものの役に立たず、無いほうが良いもの」として見えているかもしれません。(笑

 

名作アニメの「天空の城ラピュタ」のムスカの名言

 

「人がゴミのようだ」

 

というのも、また、一つの価値観だと思います。

 

 

すこし、話しが飛躍しすぎたり、脱線しました。。

 

 

 

 

 

 

 

根性論はそんなに悪くない?

 

この流れで、このお題の記事を書くのは、少し違う気がするのですが、昨日の記事で、書いたので予告通り書いてみます。

 

今回は、ちぐはぐな、記事になるかもしれません。。

 

今の、俗世間の風潮として、「根性論」というのは、かなり悪いイメージとして定着してるように思います。

 

漫画・アニメの話題を書いたので、それを例にとると、昔あったようなスポ根系の物ですね。

 

そういう漫画を批判してるわけではないので誤解しないようにしてください。。

 

自分が、学生時代、運動部に所属していたのですが、まあ、絵にかいたようなスポ根系で、厳しい顧問の先生の元で、みっちりと鍛えられました。(笑

 

今となっては、それなりに良い思いですが、やってる最中は、いつ先生に怒られるかわからない恐怖感の中で練習してたと思います。

 

顧問の先生の罵声が、結構飛び交う、部活でした。

 

田舎在中のせいか、今時、珍しい光景かもしれません。

 

流石に今の時代はそういうのは無くなってると思いますが・・・。

 

 

それで、根性論が何故悪くないのかという本題なのですが、

 

スポーツは大抵、最初は地味な基礎トレーニングと、筋トレばかりで、面白くないです。

 

でも、続けていくと、辛さが無くなって、楽しくなってくる時がやってくるのです。

 

それまで、できなかった事が出来るようになり、体が自分の思うように動いて、試合運びを自分でコントロールできるようになってくると、もう、スポーツが楽しくなってきます。(笑

 

つまり、きっかけは、汗臭い、泥臭い、根性論であったとしても、その辛さの先に、喜びが待ってるという事。

 

多分、スポーツをされてる方は、皆経験してる事なんじゃないかと思います。

 

何故なら、楽しくないとスポーツを続けようと思わないですから。

 

厳しく、辛いだけなら、絶対に続かないです。

 

もし仮にそうなら、精神を病んで、最後に自殺するかもしれません。

 

そこに、たどり着くことも無く、根性論は駄目だと、切り捨てるのは、余りにも勿体ないです。

 

自分の可能性を、「根性論」という人から押し付けられた世間体という主観で、判断してしまうのは勿体ないです。

 

無論、体を壊したり、命を落とすぐらい、根性論で続けるのは良くないです。

 

でも、だからといって、根性論を悪と決めつけすぎるのも、良くない気がします。

 

これを、昨日、書きたかったので、今日書いてみました。

 

 

「じゃあ、ゴミ拾はどうなの?」

 

という事なのですが、ゴミを拾う事で、気づいたことも沢山あるので、その辺は、過去記事の内容を興味のある方は読み返してみてください。

 

端的にいうと、ゴミ拾いを初めて自分自身が少し変わったと思います。

 

 

 

最後にもう1つ余談。

 

もう亡くなってしまった、プロ野球の野村克也監督の以下の本を昔読んだのを思い出したのでその話だけ。

 

 

 

 

ファンの人は知ってると思いますが、この人は、凄く頭脳派の方で、時には、少しずるいようなやり方もして、試合の流れを自分の方へ引き寄せていきます。(笑

 

本当に読んでると、おもわず吹き出しそうになる事を、試合中にやってたります。

 

テレビカメラで、映し出されてる野球場の光景からは、想像もできないようなことをやってるので、本でも読まないとわからないと思います。(笑

 

 

本を読むとわかるのですが、野村監督の野球は、根性論では全くなくて、緻密に計算したり、選手データを入念に調べて対策を考えたりなど、今となっては当たり前ですが、当時としては誰もやってなかったようなことをやってたみたいです。

 

野村監督は、野球監督というより、経営者というか、研究者というか・・、そういう言葉の方が適切な気がします。

この方が、もし総理大臣になっていたら、凄く人を使うのが上手なので、良い政治を取られていたのではないかと思ったります。

 

楽天時代に、結果主義の厳しい中で、あと数年というところで、首になってしまって残念ですね。。

 

 

根性論は悪くないというお題ですが、ただ闇雲に体を痛めて、練習を重ねるというやり方は、もう時代遅れなのは間違いないです。

 

IT系のデータを集計したり、フォームのモーションをPCに取り込んだりして、体に無理のないフォームをAIだったりが調べて、それを元に、フォーム改造をしたりしないと、今の時代は、スポーツの世界では、生き残れなくなってるのかもしれません。

 

 

でも、始まりの、入口、きっかけとして「根性論」はそんなに悪くないのではないかというお話でした。(笑

 

 

訂正:

過去読んだ本を調べると書籍のタイトルが間違えていました。

正しくは、以下の本です。

 

 

 

もし興味のある方がいたら読んでみてください。

 

職場の帰りに寄った、徳島県の鳴門市立図書館で自分は読んでいます。