先週末、藤原新也さんの顔が見たくて青山ブックセンターに行った。
藤原新也さんの名前は以前から知っていたけど、はじめて本を読んだのは2年前だ。
「メメント・モリ」は衝撃的で、写真に添えられた短い文を見て、ぼくは俳句を再開した。

藤原さんの顔は知らなかったけど、2年前山の手通り(代官山)のマレーシア大使館前あたりを歩いていたら、自転車で過ぎた髪の白いおじさんの後姿を見て、なぜかぼくは「藤原新也さんだ」と直感したことがある。

主義主張で動くのではなく、人々や物事に真摯に向き合って言葉を発する藤原さんには、レッテル張りや自己満足を超越した純粋さを感じる。
朝日だから、産経だから、アメリカだから、中国だから、評論家だから、ギャルだから、などと言って頭から否定する人ではないから、信頼している。

実物の藤原さんは、中肉中背の、これといって強烈な個性のある顔立ちではない人だ。
鼻の高さも指の太さも肩幅も、ぼくと似たようなものだ。
身長は170に足りないけど、戦中生まれの人では高いほうだろう。
2メートルも離れていない席に座った藤原さんの目を見る。
目が合うと、藤原さんの内面に焦点がぐっと合わさっていく。深い。
いろんなものを見て、感じて来た人の目だ。

新進の写真家、1985年生まれの高木こずえさんは、トークショーの案内ポスターにあったギャル写真とは全く違う、清潔感あるシンプルな髪型。
際立った美人という訳ではないけど、多くの人に好感を与えるのではないだろうか。

トーク内容は、藤原新也さんの文にある通り。
若い写真家が保守化している。一度写真の文体を見つけるとその場に定住している。
その中で、高木こずえは異端。毎回作る作品が変化しているらしい。

・shinya talk
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

■トークショー『デジタルとアナログのはざまで』高木こずえ×藤原新也
高木こずえ写真集『MID』『GROUND』(赤々舎)刊行記念
【日時】2009年2月28日(日)18:30~20:00+サイン会(開場18:00~)
【会場】青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
【定員】120名様
【入場料】税込700円


トークショーでは、開口一番、「今日は年齢層が高いね」というようなことを言っていた。
藤原新也さんのファンが多く押し寄せていたのだろう。
だけど、藤原さんはあくまで高木さんが主役だという姿勢。
高木さんに問いかけ、話を引き出す。

高木こずえさんが長野出身だと知って、藤原新也さんは「長野といえば長野の帝王だ」と連想したらしい。
この動画がスクリーンに映し出されていた。

・長野の帝王 ダンス 最強パレパレード
http://www.youtube.com/watch?v=ck1qG3o0be4&feature=related

「長野はヘンな人が多い」という藤原さんの言葉は、やさしい。
拒否する意味での「ヘンな人」ではなく、おもしろいという意味での「ヘンな人」だ。

高木さんの写真も映写されていた。
写真をコラージュしたり、田舎の夜道の牛を撮っていたり、ぼくにはよくわからなかったけど、一緒に行っていた彼女は「いい写真があった」と言っていた。

藤原さんが次に出す本の一部も見ることができた。
書がすばらしい。
圧倒される。細くても弱くない。崩しても乱れない。
格好をつけていないのに、存在感がある。
無駄な装いがなく、立ち入る隙がない。
人気の書道家の字が甘く見えてしまう。
藤原さんの書を買いたい。

最後に、質疑応答のときに「一日で目の色が変わることがありますか」というよくわからない質問をしてきた男に対し、「見かけよりも内面が大事」というようなことを答えていた。
藤原さんはさまざまな人と向き合ってきたことがあるのだろう。対応が落ち着いている。

藤原さんはキンドルなどの電子ブックにも関心がある様子。世の中の流れにあがなうよりも、まずは受け入れてみてそこから対応を考えればいいという姿勢らしい。
高木さんはキンドルやバックライトを使わない電子インクなどについては知らなかったらしい。新聞を読まない人なのかもしれない。
いろいろ考えているというよりも、まだ感覚で行動しているのかもしれない。
それでもバランス感覚のある人はそれなりにインパクトのある作品を作ることができる。

トークショーのときのメモをちょっと記しておく。

■高木こずえ×藤原新也トークショー(2/28 青山ブックセンター)
(藤原)
若い人は保守的。ある文体を見つけるとそこに定住してしまう。
20代、30代。同じ事を繰り返すと感心する。
カメラのハードメソッドも固定している。
でも高木こずえは一作ごとに変わる。

農耕民族は毎年同じ事をずっと繰り返す。

高木君の写真は死が似合うんだよね。

底流にあるものが文体。表現が全く変わっていても表現するものが似ている。
そういうものが出来上がっている。同じスタイルを踏襲するのが文体ではない。

(高木)
天才少年が好き。天才で子どもで男っていうのがうらやましい。
自分にないものを全部持っている。

写真は天才てないんじゃないかと思う。

(藤原)
あんまり聞いたことがないね。
絵はいるけど。
写真は、あっち側が天才。
だからいかに天才を撮るか。
写真はリフレクションするものを撮る。
いかに世界の天才を見つけるか。
対象が主で、自分が従。
ピカソなどは主体性。
写真は非主体性。だけど、写っているものはすごい天才であることがある。

カメラが変わらないことが、心がかわらないことに似ている。
服が変わる以上に、カメラ。
カメラを選ぶことがその人の文体を決めてしまっている。

若い写真かも保守化。
受け手も保守化。
編集者やディレクターが一番保守化している。

あの人といえばこれ→依頼。そういうサイクル。
こう写真が変化すると編集者もディレクターも、どう使っていいかわからない。
60年代、70年代は今と違っていた。
非常に編集者が保守化。保身。創造的なことをしない。

重い、意味のある写真はなかなか使い道がない。
冒険できるニューヨークに行ったほうが花開くと思う。

(高木)
―― 行きます。

(藤原)
同じ文体に定住している人が仕事をもらっている。
わけのわからない時代。
こういう時代に不遇な目にあっている人に、ちゃんと生きていけるように。
経済も大事だからね。

新作の本について。
進化か退化か。
どんどん写真にしろ言葉にしろ意味性がなくなっていくことを目指している。
メメント・モリのようなメッセージ性でなく。

作家性を削ぎ落として、意味性、メッセージ性を削ぎ落として。

 発心の
 花水木に
 うもれ

 花の下
 過ぎ行く人の
 悩み喜び

 蝶の羽音が
 聴える

 拝む姿より
 歩く姿に
 本性が見え

拝む姿はみんな同じ。歩く姿は違う。拝む姿は立派だけど、歩く姿が決まっている人は少ない。
 
 春の陽が
 そこに
 座れと言う

 うたたねの
 頬に鈴の音

 山越えて
 葉桜

山を越えて風景が変わると満開の桜から葉桜に変わっている。旅の時間。

 花冷え
 ローソクで
 指温める

 幾世の春の
 過ぎ去りし
 幾世の春の
 残されし

高木君にはわからない?
―― そうですね。

 二人灯して帰る

メッセージ性が強いものは、その他に読みようがない。

 ニンゲンは犬に食われるほど自由だ

若いときは人のことを考えていない。
今は考える。読み手を。
テクニカルな意味ではなくて、
表現することは自己完結してしまうと意味がない。

キンドル、電子ブック。
アメリカは虚像をどんどん発信。
Macとかディズニーとか。
本をデジタル化してパネルの中に何千冊と入れる。

モニターとインクと、受け取り方に違いがすごくあると思う。
みんな見ている色相が微妙に違うと思う。
見え方が違う。
老人になると色があせる。

書とは。
若い人は、書こう書こうとして書いた字。
書というのは、わけもわからず書かされたような、
そこが、パソコンでも起きる。
Photoshopでも、そこは人任せにできない。


以上。
終了後、会場の隅に立つ藤原さんがとても気になったけど、何も声はかけられなかった。
ぼくは興味ある人のことをつい何度も見てしまうけど、話ができないのだ。
でも、やっぱり気になる。藤原新也さん。

藤原さんは「うた」だと言っていたけど、ぼくにはあの短い文は、広い意味での俳句に思える。

それから、藤原さんの言うように、編集者の保守化、保身化は著しい。
芸術家をサポートできない人が多い。
でも、ぼくは保身に走らない。
藤原さんに対して興味津々の編集者は、みんなそう思っているのではないだろうか。
新作、楽しみにしています。