ラーメン食べたい透明人間

ラーメン食べたい透明人間

とらドラを愛してやまない物語中毒者。気が向いた時に更新します。

 もう前置きがいらないくらい話題になっている超かぐや姫。恥ずかしいことに私は予告の段階では映画かと思ってたのもあり、Netflixで公開されると瞬く間にSNSを賑わし、そのスピード感に慄いてました。

 

 私の人生で影響を受けたアーティストは?と聞かれた時、BUMPとryoさんは真っ先に答えるくらい好きなアーティストだったので、「ワールドイズマイン」が使われると知り、他にも有名なボカロPが参画されてると知り予告から興味を惹かれたので正直楽しみにしてました。

 

 実際面白かったですし、観た友人たちの感想を聞いても概ね良好ではあったのですが、個人的に気になったことを解消するためにSNS等で感想を見てきてはいたんですけど、一向に解決しないのと、まとめると長くなりそうなのでブログに纏めることにしました。

 

 感想の中には当時ボカロを聞いていた人やVTuber見てる人に好意的な感想もあり、私としてもそこを期待して見始めたわけですが、良かった点として”ボカロやVTuber文化をよく調べている””そういった要素をシナリオに組み込めている”といった感想が散見されたのですが。

 

・本当にこのシナリオにボカロやVTuber文化を描いたものなのか。

 

 ここに要点を絞って、個人的に感じていたボカロやVTuberを追ってきたコンテンツの面白さを振り返りつつ考察していきます。一週間ほど前に一度見たきりですので、作中で言ってたことなど忘れてたりするかもしれませんがご容赦を。

 

 こちらに出させていただいております名義等の敬称は略させていただいております。

 

 

 

 

 ボカロ黎明期~第一次ボカロブーム

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 まずはボカロの歴史を振り返ってみる。サブタイトルにボカロと銘打っていますが、主に作品で使われた「メルト」「ワールドイズマイン」について深堀りしていきたいので、主に初音ミクとsupercellについての記述になります。

 

 初音ミクが発売されたのが2007年8月31日、そこから4日後の「VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた」の投稿ではちゅねミクというミニキャラ、そしてネギを振る動画が登場し、初音ミクにはネギを持たせるのが定番になった。その後には「みくみくにしてあげる♪」や「恋スルVOC@LOID」などのオリジナル楽曲が投稿されていく。ここで伝えたいのは、ファンが作り上げた二次創作が初音ミクのキャラクター性を加えていき、その初音ミクという共通認識を通して”初音ミクのファンソング”と言えるようなものが作られたのである。先程挙げたオリ曲の歌詞には”ネギはついてないけど出来れば欲しいな””あのね、早くパソコンに入れてよ””私のこともっと手なずけて気持ちよく歌えるように”といったように、初音ミク視点のラブソングが多く作られていた。

 

 そういった流れの中で発表された楽曲がryoさんの「メルト」である。”メルトショック”で調べていただくとどれだけ流行ったのかがわかると思うが、初音ミクの曲ではないにも関わらず爆発的にヒットした。この歌詞に出てくる”ピンクのスカート””お花の髪飾り”はいずれも初音ミクを構成するパーツではないのだが、私がこの曲を初めて聞いた時は「初音ミクが歌っている」と感じたのも今も覚えている。作詞をしているryoさんが「初めに浮かんだ案をそのまま使う」と言っていたように、等身大な歌詞と相まってそう感じたわけだが、これまでは初音ミクというキャラクターが歌っているキャラソンの側面が強かったものが、クリエイターの特色を映すアーティストへ昇華された瞬間だと思っている。

 

 このメルトショックで初音ミクの認知が広がり、キャラソングからオールジャンルへと裾野を広げ結果として数多のボカロPを排出することになる。今や日本で一番楽曲を再生されている米津玄師(当時のハチ)もこのメルトで初音ミクを知ったそう。

 

 そうしてボカロは一時代を築き、ヤチヨがカバーもした「Tell Your World」という楽曲が発表される。作詞作曲は超かぐや姫にも参加しているkz。この楽曲はGoogle ChromeのCMソングとして起用され、”たくさんの点は線になって遠く彼方へと響く”と歌っている通り、ファン同士が国境を超え、まるで初音ミクという共通概念を通じて世界中と繋がったような感覚さえ覚えた。初音ミクだけでなく、ニコニコ文化全てを肯定したかの楽曲で、初めてこのCMをテレビで見た時には頬に熱いものが流れました。余談ではありますが、作詞作曲したkzさんは後ににじさんじ、ひいてはVTuberのテーマソングともいえる「Virtual to LIVE」を制作します。すげぇクリエイターって一回じゃ終わらないんだ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あのGoogleのCMソングに初音ミクが使われ、ファンの全員が納得するような楽曲が生まれただけでもすごいですが、この「Tell Your World」に対するアンサーソングともいえる楽曲が「ODDS&ENDS」、制作はsupercell(ryo)。初音ミクを初音ミク以外の存在にしたといっても過言ではないryoさんが初めて”初音ミクのために作った楽曲”である。「Tell Your World」で初音ミクのファン同士は繋がり肯定されオタクは救済されたが、では楽曲を作っているボカロPは?初音ミクのことを誰が救う?「ODDS&ENDS」だ。

 

 細かく書くともう楽曲の考察記事になってしまうのでざっくりと説明するが、一昔前はオタクというレッテルを貼られただけでなんとなく疎外されるような存在だった。初音ミクもまた、人間ではない機械の音声でなんとなく敬遠していた、そんな経験はないだろうか。そうやって世界から仲間外れにされた一人とひとつが出会い、すれ違いつつも最後は寄り添い合い一つになって音楽を奏でる。そんな歌だ。

 

 ボカロのファン、ボカロP、初音ミクに対する答えのようなこの2曲が生まれるまでを、個人的にはボカロの一つの時代だと思っています。もちろんその後にも素晴らしい楽曲等も生まれましたが、時代を区切るのであればここかなという気持ちがあります。

 

 

 バーチャルYoutuberの誕生

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 続いてはVTuberの始まりについて。言わずと知れたキズナアイ、彼女が”バーチャルYoutuber”と名乗ったことから歴史は始まります。彼女はAIで人間の世界を知るためYoutubeで活動を始め、2017年にSNSでバズったことでその名を広く知らしめることになります。その影響でそれ以前より活動していた電脳少女シロやときのそらも見つかり、ねこます(バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん)やバーチャル四天王最後の刺客である輝夜月がさらにバズったことによりVTuberがどんどん有名になっていきました。

 

 

 今ではVTuberと十把一絡げにされますが、電脳少女シロは”電脳少女YouTuber”、ときのそらは”バーチャルJK”と呼び方がそれぞれ分かれていたりして、正確にはこういった活動者に対する呼称がなかった影響ですが、キャラ被りみたいなものをなんとなく避けていたような雰囲気がありました。今で言うと、バーチャルYoutuberで一つの箱みたいなイメージですね(もちろん当時はばあちゃるがバーチャルYoutuberを名乗っていたり、シロがアイドル的な目標を掲げていた傍らでアイドル活動していたあんたま(現:えのぐ)と被っていたりはした)。ですので正確に言えば”バーチャルYoutuber”という単語は、本来はキズナアイだけを指す単語でした。VTuberっぽい個性的な挨拶はこの時から生まれてましたが、どちらかといえばYoutuberの文化からの流用な感じがします。

 

 私は2017年末からVTuberを見てきましたが、最初に感じたことは”自我を持った初音ミク”でした。初音ミクという存在は見た目とキャラクターを外付けされ、ボカロPそれぞれの解釈などが加わっていきましたが、その名前や姿を持って知ってる人の共通概念となっていました。初音ミクはその性質上、歌うことに特化していましたが、キズナアイはアイドルが好でゲームをさせたらポンコツだったり、電脳少女シロは残虐的な発言や特徴的な引き笑いで”サイコパスシロイルカ”と呼ばれたり、各々の活動を通し、ファンがそれぞれをどういうキャラなのか共有し作り上げていく様は、初音ミクのようにネットで生まれ育ったキャラクター文化の上に立っているなと感じました。それがもっと個人にフォーカスし、表現や交流をメインにし発展したのがVRチャットという認識です。

 

 それまで活動していたVTuberはみんな3Dのボディを持っていたのですが、2018年ににじさんじの登場で広まったLive 2D でハードルが下がり、企業の参加も活発になり2017年では約100人ほどだったのが2018年には約1000人と急増し、今のVTuberらしさが形成されていきました。VTuberは初動は鈍かったとはいえ、見つかってから半年ほどでどんどん形態が変化していくスピード感はボカロにも通じるものが合ったように思います。

 

 

 ボカロ、VTuber文化を踏まえて

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 前置きが長くなってしまいましたが、超かぐや姫の内容にも触れていこうと思います。まず彩葉は学校やバイトの傍ら、VR空間で活動するAIヤチヨのファン。そしてかぐやに出会い成長し、コラボのためにVTuberのような活動を始め、ファンを獲得していく……。確かにヤチヨがAIで感情を獲得していくのはキズナアイのオマージュだろうし、かぐやのVTuberっぽい挨拶や活動でファンを獲得していくのはVTuber的である。用意されたイベントも、VTuberの活動でよく見るものだ。

 

 けれど私はこれまでボカロとVTuberの活動は自己表現だと著してきた。VR空間で彩葉は狐耳だったり化粧が変わったりするが、かぐやはほぼ見た目は変わらない。VTuberが他の表現と比べて一線を画しているものの一つは見た目の自由さだと思っている。彩葉が狐の姿なのは色々考察されていたりするが、本編では語られていない。もちろん限られた時間で描く描かないの取捨選択された結果だと思うが、結果として捨てられている。私としても彩葉、かぐや、ヤチヨの物語が軸なので必要性は感じおらず、ここを取り立てて論うつもりはない。

 

 そして彩葉とかぐやがメインで話が進むので、ファンとの双方向に対してもあまり描写はされていない。これに関しても上記した通り、重要度は低いので描かれていないのも無理はない。活動の内に音楽を作ったり、かぐやとの再開を願って作曲したり、コラボの内容がライブなのもあって、ラストは3人のライブで締めくくられる。

 

 彩葉は幼い頃に父親と音楽を楽しんでいて、トラウマにより離れていたがかぐやとの出会いで再び音楽に向き合い、かぐやが月に帰った後にまた出会うために作曲し届けようとする展開はこの作品で音楽を扱うに値する十分な理由ですが、ボカロである必要性を見いだせなかった。インターネットと自作の音楽だったりヤチヨがAIだったり、ボカロを想起させるのはわかるんですけど、音楽を届けたいのであれば弾き語りとかでもいいですし、ネットの活動なら歌ってみたもありますし。親和性が一番高いと言えばそうなのですが、では”ボカロの文化”に触れているかと言われれば疑問です。

 

 作中で使われた「メルト」や「ray」は確かにボカロ文化には重要な曲で、音楽で彩葉とかぐやが繋がった部分はまさに「Tell Your World」的なものではあるが作中では使われてないし、ボカロが好きだった人たちが好感を得てるのは、「ハッピーシンセサイザー」「ワールドイズマイン」が先程伝えた「ODDS&ENDS」以前の歴史を作った時代の曲だったからだろうと想定している。

 

 しかし私は「ハッピーシンセサイザー」が使われたタイミングは唐突に感じたし、「ワールドイズマイン」を含め作品にマッチしてるのかが、個人的には好評だと感じている人に一番問いたい部分だ。「ハッピーシンセサイザー」はもちろん好きで聞いていたが、歌詞を全部パッと浮かんでくるわけではなかったのでちょっと置いてけぼりを食らった感があるが、「ワールドイズマイン」に関しては彩葉とかぐやには合わない曲だなと明確に感じた。

 

 ”世界で一番のおひめさま”で始まる曲ではあるが、”いつもと違う髪型に気がつくこと””ちゃんと靴まで見ること”と歌詞にある通り、この女の子は可愛くなるために髪型を変え、そして頭のてっぺんから靴に至るまで全身をおしゃれしているのがうかがえる。キミにかわいいって思われたい、褒められたいって欲求が歌詞に書かれているがこれはキミの事が好きな気持ちの現れで、かわいいって思われるためならショートケーキもプリンも我慢する努力もできるのに手を繋ぐことすらできない、そんな女の子が一歩通行な思いを抱えながらも背伸びしてる曲だと思っているので全然刺さらなかったんですけど、同じようなこと言ってる人見受けられなかったですがどうなんでしょうか。私はryoさんの「こっち向いてBaby」とか「LOVE&ROLL」みたいな恋愛強者ぶってるけど実は見栄を張ってるだけみたいな女の子の歌が好きなので、そういう見方をしてるだけかも知れませんが……。

 

 ブログを書いてる間にヤチヨのほうが合ってるのか?とか思いましたが(最初本家イラスト風のポーズ取ってるのヤチヨですし)、歌詞でお姫様を”おひめさま”としてるのが子供っぽさを助長させてるんですよね。好意的にみれば合ってないとは言えない……ですけど、初見で見た時は、本当のお姫様に歌わせるんだって気持ちが先行しちゃってのれなかったですね。

 

 ですのでボカロ曲の起用についての理由も個人的にはしっくりこなかったですし、そういったクリエイティブな領域も音楽の部分で止まっているのと、アバターを通してリスナーと場を共有するVTuberらしさというのが感じられなかったので、ボカロ文化、VTuber文化に触れられているのかという部分については懐疑的です。

 

 彩葉、かぐや、ヤチヨの関係性だったりアニメーションの良さは出ていましたが、これまで記してきた文化的な部分が作品を見て読み取れるとも思えなかったですし、この文化的な部分が作品に深みを与えてるようには見えなかったので、もし見落としている部分があればご教示いただきたい。オリジナル楽曲の考察などはありましたが、リミックスされた既存曲を深堀りしている人が見当たらなかったので……。コンポーザー陣をボカロPで固めただけでも話題性出るし、オリ曲もいいものが出ていたのであれば、既存曲を使った意味などももっと深堀りされるべきではあると思うんですが、これも言及している人を観ていないので、そういうのがあれば共有いただきたいですね。SF考証だったり、3人の関係性を語っているのは無限にあるのですが。

 

 

 BUMP OF CHIKEN

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そんな理由で正直絶賛している人たちに比べたら評価は落ちてはいるんですが、EDで起用された「ray」は作品に完璧にハマってました。ここに関しては文句のつけようがない。ここからはオタクがただBUMPがいかに素晴らしいかを褒め称えるだけなので読み飛ばしてもらってもいいです。

 

 そもそも先程も少し触れましたが、初音ミクとアーティストが公式でコラボした史上初の楽曲としてリリースされたボカロ文化的にも「ray」は重要な意味を持っています。ちなみにリリース当時は賛否両論で、私も好きと好き同士ではあったのですが初めて知った時は「どうして……?」って戸惑いがあったのは覚えています。ただシロとねこますが生放送でディスコード繋いだだけのコラボした時や、VTuberが初めてボカロPが提供楽曲をオリ曲として発表があった時とかも一部荒れていたので、そういったこれまでない組み合わせがあると必ず荒れるし、時が経てば当たり前になっていくので通過儀礼みたいなものだなと最近は思うようになりましたが。

 

 そんな私たちを置いていくかのように、歌詞は別離の先に進んで変わっても変わらないものはあるよって言ってくれてるんですよ。まるで昔好きだったものにしがみついて価値観をアップデートできない我々を置いて新しいものを取り入れたとしても”始まりには君がいる”って歌われたら報われちゃうじゃないですか。BUMPはこれまで好きという感情を別のものに置き換えてるのがいくつかあって、例えば星に名前をつけたり(プラネタリウム)、花に例えたり(花の名、ダンデライオン)、飴玉にして渡したり(飴玉の唄)、見栄や虚栄心を塔にしたり(ハンマーソングと痛みの塔)、プラネタリウムで届かないと思っていたのが触れちゃったり、触られた温もりが離れても残っていたり(車輪の唄)、メタファーとして触れる形にしてる印象があった。しかし本曲では愛情のような触れないものを、触れないから、見えないからこそいつまでも自分の中に残り続けると歌ってるのも変化に感じましたし、”◯×△どれかなんて みんなと比べてどうかなんて”と新しいものを開拓してきた人たちも含めて肯定する曲をミクとのコラボとして出してくれるの、あまりにも正解すぎる。辛いことがあったとしても繰り返される”大丈夫だ”で藤くんの優しさを感じれて最高なんだ……。

 

 ”お別れしたのはもっと 前のことだったような 悲しい光は封じ込めて 踵すり減らしたんだ””お別れしたことは 出会った事と繋がっている””この光の始まりには 君がいる”はヤチヨの8000年の道のりを感じましたし”寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから””楽しい方がずっといいよ ごまかして笑っていくよ”はかぐやが抱いていた感情を歌っているようでしたし、ここで書いてきた文化的な部分や「ray」の曲の良さが瞬間的に脳裏を駆け巡っていって、そんなん泣くんですよ。むしろこの曲を下地にシナリオ書いたんか?って邪推したくらい。

 

 supercellがボカロの知名度を上げたと記載しましたが、アーティストとして影響与えたといえば、解釈の悪魔と言われている米津玄師や、ボカロ、VTuberの文化を語る上で外せない楽曲を書いたkzがBUMPを挙げていると考えると、これまでのボカロ文化から一本の道に繋がっているようじゃないですか。歌がそういう時代や言語も超えて広がっていく、それはまさに「Tell Your World」で描かれたことでもあるし作品のテーマに合致してるように思えた。そしてその始まりにいたのは藤原基央でした。

 

 

 

 超かぐや姫で描かれていたものはなにかと、それとのズレ

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ではこの作品で触れられてるテーマはなんだろうかと考えると、好きでいることの肯定ではないだろうか。Youtubeのキャッチコピーが”好きなことで、生きていく”だったり、ボカロやニコニコのコンテンツ含め、本来好きでいることは否定されるものではない。楽器ができなくても、教えてくれる仲間がいなくても、一人でボーカル付きの音楽を作れる、そういった間口を広げるという意味も、ボカロやVTuberが持つ側面の一部ではあると思う。

 

 ただ否定的な意見で散見されるキャラクターに感情移入ができないというのは、好きで始めたクリエイティブな活動である生み出す苦しみだったり苦悩が描かれていないからではないかと推測できる。彩葉は成績トップを取りつつ友達と好きなゲームをしながら推し活をし、生活費のためにバイトもしている。私は推し活としてファンアートを描いたり切り抜き動画を作ったり、ファンレターをだしたり、イメージソングを作ったこともある。正直これらのことをしようとすると趣味の時間を削ることになり、推しだったりがプレイしているゲームを共有するためにすることはあるが、自分主体でゲームをしていない。私はこうした葛藤があったり(もちろんそれをわかったうえでやっているので後悔などはしていない)、そうしたファンとの軋轢が全然描かれていないのもそう感じる一因のように思う。

 

 推しのためにたくさん時間を使ったり創作をしたりしている私のほうが他のファンより上だと思ったり言うつもりは毛頭ないが、推し活というものの認識の相違をとても感じた。これからかぐらと活動していく上でファンが描かれていないと言ってた部分にも当てはまるが、ファンは個性を出すな、好きでいるなら見返りなど求めるなと強要されていないか。私の好きな漫画にある「愛は見返りを求めないものですよ」ってセリフを心に刻みこんでいるのでそれを否定するわけではないが、それにしても蔑ろにされているように感じるし、それを描く尺がないのならそもそもそういう話にするべきでないと歪さを感じる。”※ファンアートは活動に使わせていただく可能性があります”と明記されていれば勝手に使っていいとは私は思わない。そういったことをしている人を見た訳では無いが、もし本当に拝借してサムネ等に使った際に描いた人を明記したりお礼をしていない人がいたとしたら、私は敬意を欠いている人だなと感じるしそう思う人が多数派だと思うが、ここまでファンのことを漂白されたりこういったことを指摘すると「お前は褒められたいから描いているのか」「見返りを求めるなんて烏滸がましい」と言われるのではないかと正直怖い。勘違いされたくないので繰り返すが、私はレスポンスが欲しくてファンアートを描いたり切り抜きを作っているわけではない。ファンも一人の人間で、そこに礼節があって然るべきなのに、何故か世間ではそういった自我を出すことに対してとても冷たいように感じるし、この作品が人気でVTuberの文化も描かれているとまで言われてしまうと反抗もしたくなる。

 

 ただこの作品は見た人が幸せな気持ちになってほしいからと、家族との確執を丸々カットしていたりするので、作品全体を甘くコーティングしているのであろう。良薬は口に苦しというが、本質的な苦みや辛さを飲み込めない人のためにオブラートもまた存在し、それを必要としている人もいる。いうなれば、本作はオブラートに包むことに全力を注ぎ、そのオブラートにも砂糖を練り込んで誰でも美味しく口にできるような作品とも言える。

 

 なのでこれまでクリエイティブな活動だったり推し活だったり同じような苦しみに直面した人にとっては、苦味という本質が見えないと薬の効能を感じることができないし、そういった部分を求めているのだろう。実際そういった苦しみを痛烈に描きながら好きな感情を肯定する、なんて作品は私もいくつか挙げられるし、制作者もそこに通じているのでリアリティが高くなりハードルが上がっている面もあるので、それらと比べると物足りなく感じるのも理解できる。最近トラペジウムをオススメに挙げる流れもそういった意味だろう。

 

 全ての創作にそういった苦悩を描く必要性も無いですし、こういった作品も必要だから生まれそれを好む人たちに届いた結果なのだろう。私はVアイドル界隈をよく見ているのですが、アイドルってセルフプロモーションの側面が強いので、活動方針を定めたりライブ等のチケットを売らなければ続けられなかったりしますが、歌ったり踊ったりと楽しく活動しえいる部分を届ける仕事でもあると思っているので、そうした白鳥が水面下でバタ足しているところは見せない活動者と、優雅に泳いでいる美しく美味しい部分だけを享受するファンとの関係性にマッチしていて、ボカロやVTuberが好きな人に向いていると評されるようになったのではないだろうか。

 

 なので私は今の推し活に迎合している人たちに向けて描かれたもので、ボカロやVTuberの文化を好きで追って来た人たちに対する賛美ではないと感じた。

 

いつだって君は嗤われ者だ

やることなすことツイてなくて 挙句に雨に降られ

お気にの傘は風で飛んでって

そこのノラはご苦労さまと 脚を踏んづけていった

 

いつもどおり君は嫌われ者だ

なんにもせずとも遠ざけられて 努力をしてみるけど

その理由なんて「なんとなく?」で

君は途方に暮れて悲しんでた

            ODDS&ENDS/supercell

 

 アニメ見てたりボカロ聞いてたりして虐げられていたオタクは過去になって、今は推し活して好きを主張すれば仲間ができて人生が充実するようになっていった。それ自体は大変喜ばしいことで、より世間に受け入れられる形に変容していくのは自然な流れだ。しかし世間の逆風に抗い好きでいることすら異端とされていた時代があったことも伝わってほしいと思う。茨の道を開拓し、傷つきながらも頑張って土台を培ってきた先駆者たちには、これまでと変わらず敬意を表していきたい。