高飛車子です
昨日は某会議に出席
差別などについて考える時間でした
差別をなくす
これはとても大事な事です
世の中、様々な場所で差別があり
様々な部分で差別がはびこる
同和問題もまだ残っている
差別はいけない
口では簡単に言える
でも私は差別されたことがないので
差別が身近では感じない
いや、あったのかもしれないけれど
それを差別と取るだけの知識がなかっただけかもしれない
自分の行動と考えは本当に
差別をしていないのか?
いや、世の中、小さな差別の中で暮らしているのではないか
小さな差別の繰り返しで出来ているのではないか
考えたらきりがない
たとえば多様化した性に対して
差別をなくそう!
芸能界でも元は男性、今は女性タレントとして
活躍している人がたくさんいる
自分の娘が元女性で今は男性の彼氏を連れてきて
結婚したいと言ったら
「幸せにね」と心から言えるのか
自分の息子が元男性で今女性の彼女を連れてきて
結婚したいと言ったら
「あなたは家の嫁ですよ」と
心からそう言えるだろうか・・・
血のつながった孫は期待できないんですよ
それでも性の差別なく受け入れられますか?
私が言いたいのは
性の選択の自由は本人の問題だと思います
人の選択を私はあれこれというつもりはありません
しかし、家族は別です
だから、私は差別はしないと口には言いながらも
感情はそうではないのです
自論ですが
ニック・ブイヂチさん、手足に障がいがある講演家
この人の動画を見て
勇気や元気をもらったという人が多かった
私も行きつけの美容室の先生から見るよう勧められた
でも思うんです
なぜ健常者である人が障がいをもつ人から
感動をもらっているのか
逆はないんでしょうか
どうしてパラリンピックから感動するのでしょうか
それは相手にハンディがある
と思ってみているからではないでしょうか
かわいそう
その身体で
まだ若いのに
それは無意識の差別ではないですか?
私たちの差別排除は
都合のよい、調子のよいものになっていないだろうか
「差別をしない」ということは
実は差別している事なのではないだろうか
そんなことを考えた
高飛車子の一日でした