本当のあなたの声を聴く *ここいろ*
です。
”永平寺”って、ご存じですか?
福井県にある大きなお寺です。
この永平寺を開いたのが
「道元(どうげん)禅師」というお方。
道元禅師は、
中国に渡って修行をし
お釈迦さまから伝わった
「坐禅」という正伝の仏法を
受け継がれて
日本へ持ち帰り
坐禅を伝えてくださった
という方です。
道元さんって、こんなお方。
↓
男前ですよね~。
あ、映画でしたね。
当時はまだ、中村勘太郎さん。
のちの中村勘九郎さんです。
わたしにとっての道元さんは
どうしてもこの中村勘九郎さん^^
実物の道元さんは・・・
この映画自体には
賛否両論、いろんな意見が
飛びかっていました。
無理もない・・・
禅をそんな簡単にまとめあげ
わかるように形にするなんて
とってもむずかしいことです。
それぞれの立場
それぞれの主観
どこから見るのかで
大違いですからね。
わたしにとっては
道元禅師というお方が
どんな人だったのか?
禅とは
どういうものなのか?
どうしてもわかりたい!
という欲にまみれてたので (笑
何度も見返しては
勉強させてもらいました。
you-tube様さまです^^
その道元さん。
こんな教えがあるんです。
仏道をならふといふは、
自己をならふなり。
自己をならふといふは
自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、
万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の身心、
および佗己の身心をして
脱落せしむなり。
悟迹の休歇なるあり、
休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
ええ、ええ。
非常にむずかしいですねー。
読めない漢字もあるし。
そこで、
現代語に訳してみると
仏教的真理を学ぶということは、
自分自身を学ぶということであり、
自分自身を学ぶということは、
自分自身を意識しなくなることである。
自分自身を意識しなくなるということは、
自分自身が宇宙によって
体験させられることである。
自分自身が宇宙によって
体験させられるとは、
自己の身心すなわち主観と、
他己の身心すなわち客観とから
主観とか客観とかという意識を
脱落させることである。
悟ったという痕迹を他に知らせない
ということがあり、
他に知らせないその痕迹を
長い期間に亘って発現させる
ということが行なわれる。
ということです。
ほかにもいろんな方が
現代語に訳してくださってます。
もしも気になるようなら
検索してみてくださいね。
(天井いっぱいの絵がすばらしい!)
「自己をならふなり」
わたしは、この教えが
一番こころに響くんです。
これがすべての大元。
ベースであり
根っこであり
土台なんです。
自分自身について知るってことは
こんなことができる
こんなものを持ってる
こんなに知ってる
などなど。
そういうような
具体的な何かを表すこと
じゃないんですよね。
それらがあるように
”ある場”
よく言われる
「”ある”に目を向けようね」
は、
具体的な何かを表したような
コトやモノだと思われる
かもしれませんが、
言葉では言い表せない
存在(実在)としての感覚
ここに”ある”という
動かしようのない事実
だれにも証明しようのない
まったくゆるぎようがない
地に足がついている感覚
ということを指しているんです。
よくぞ持ち帰ってくださった
道元さん。
これが
間違いのないものである
ということを
坐禅という実践を通して
伝えられているんですね。
言葉では
言い表せないもの
だから。
(ここがものすご~くスキ♪)
これまでに2回
永平寺に行ったことが
あるんです。
居心地がいいっていうのか
落ち着いた雰囲気が
ふわ~っと漂っていて。
何度でも訪ねたくなるような
お寺なんですよねー。
なんでなんだろな?
と不思議に思ってたのは
道元さんに出会うため
だったのかも?なんて^^
確かに
禅の教えはむずかしいんです。
坐禅なんて
ゆっくり座ってる時間がない!
でも禅は、
生きていることそのもの
であり
坐禅は、
日常の行いすべてのこと
なんです。
あれ?
余計にむずかしく
させてしまったかしら?(笑
そんなあなたのために
こちらをご用意しております。
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すべてのことは
わたしを知ること
からはじまる!
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