前 ブログの続き~


今から9年ほど前だろうか、カルフォルニアのサンフランシスコで生活を送っていた頃、私はヘイトアシュベリーのヒッピーな街のど真ん中に住んでいた。


近所にはヨガのスタジオや自然食のカフェやマーケットが立ち並び、環境的には申し分の無いところで、私はほぼ毎日ヨガのクラスに明け暮れていた。


レストランでバイトをしていたので、どうにか食生活の半分はそこでまかなっていたが、それ以外はほとんど自炊とも言えるべき自炊をすることができずにいた。


当時住んでいたフラットと呼ばれる、ドミトリーをアットホームにしたタイプのアパートには、ワンフロアーに私の他に同居人が3人いた。当然、トイレ、バスルームやキッチンは共用だった。幸いたまに、掃除係の人が来てくれていたので、助かっていたが、そうでなければ、耐えられなかっただろう。


住人の一人は金髪姉ちゃんのドラッグディーラー、一番奥には過食に陥っている太っちょでいつもキッチンを占領しているおじさん、私の隣には毎晩叫び声を上げる、頭のおかしな韓国人の男の子と、言った感じで、なんとも濃いメンバーだった。


いつ共用のバスルームのゴミ箱には謎の注射器が落ちていて、キッチンは食べ物で荒らされ、共用の冷蔵庫に自分の食材を入れておくといつの間にかなくなっていた。

夜は例の叫び声で落ち着いて眠れぬ夜が多かった。


それでも、私の部屋は狭いながら完璧で家賃も安く、表ショッピングストリートから一本裏手にあり静かでとても良い香りがし、日当たりがよく、その環境とは裏腹な究極のヒーリングスペースだった。


すぐ斜め下が、クレープのカフェショップで、たまに朝ごはんをそこでお世話になっていた。


NYから心配して来た友人は、最初私の部屋を訪れ、口を揃えて、「落ち着く部屋だね。」と言ってたものだ。

だが、夜中に隣から例の叫び声が聞こえてくると、顔が真っ青になっていた。理由を話すと、とにかく、気をつけて!と言われたものだ。


そんな場所に私は、契約期間ギリギリの4ヶ月もの間、生活を送った。最後、家主にクレームを言ってその代わりに、表通りの別棟の部屋を100ドルディスカウントして移ることができたのだった。


前置きが長くなってしまったが、そんな環境で私がどのように自炊をしていたかということだ。


ある日、NYから友人が泊まりに来て、彼女と自炊生活を送ることになった。彼女はローフード(食材を低温で調理し、栄養を殺さずにつくったもの)の知識にたけており、以前自分の潰瘍を徹底したローフードで直したことがあったのだという。


そこで、満足に調理もできないでいた私にたいして、彼女が火を使わずに作る栄養満点の食事方法を教えてくれたのだった。


まずは食材だった、サンフランシスコはNYと同じくらい、自然食スーパーの宝庫でNYにもあるホールフーズマーケットもありなんでも手軽に手にはいった。


幸い小型の冷蔵庫が部屋にあったので、その食材たちを保管できた。


一番中でも気に入っていたものは、そのホールフーズで手に入るパンだった。それはただのパンではない。

裏の栄養成分表を見ると、そのパン1食分で多くの栄養が取れてしまうとい優れものだった。

普通のパンとは違い、かなりもっちりとしていて、それだけでも満たされた。

私たちはパンのペーストとして、NYのマクロレストランで出していた、味噌タヒニペースト(味噌とごまペーストをまぜたもの)をつくり、パンにつけたり、ビタミンミネラルたっぷりのオーガニック野菜を挟んで食べたりしていた。


量的には少なくとも、不思議とそれだけで大満足だった。


たまに、街ではオーガニックの生ジュースを買って飲んだりしていたので、その頃の食生活は今より格段によかったと思う。


子宮筋腫を患っていたことからやはり、肉はもちろん乳製品はさけることを言われた。(当然NYに居た頃はほとんど口にしていなかったが。。)


その例の栄養満点のパンもホールフーズに何種類か出ており、どれももちもちして腹持ちはよかった。


数年後、そんなアメリカを離れ帰国してから、環境も変わり、手に入る食材も変わり、今は調理できる環境はあるものの、そうした便利な食材のある店などはなく、前の食生活に逆もどりしてしまったのは言うまでもない。


満たされる食生活パート3へ続く