いつもの下車駅、目の不自由な二人がお互い声を掛け合い杖をつきながら足元や足先 確認しながら歩いていく。彼らの行くその先には自転車など障害もあるので彼らの前を歩く自分は後ろを振り向きながらも、その様子が気になって観ていた。駐輪場でもない普通の道路、自転車を何台も無造作に置いているのも、よくよく考えると危険な障害物だったりする。例えは悪いが幼少時代よく目にしたありんこを思い出した。よく働きよく歩く、そんなありんこ達に魔の手が…突然 上から大きな影、シューズで道を妨げられる。はたまた木の棒で地面をかき乱される。これは彼らからしてみれば竜巻みたいなものだろうか。しまいには、あり地獄という手の込んだ罠付きの巨大なベッドタウンが洪水にさらされる。それはすべて人間のしわざだが、自転車を道路に置くのも人間。そして目の不自由な方にとっては、生活をしていく上で同じような不安や危険が山ほどあると思う。もし自分の目が不自由になったらこうして外を歩けるだろうか、という不安。ゆくゆくは多少 慣れも出てくるかもしれないが、真っ暗の毎日や道をこんなに早く歩けれるかな~と正直 思った。しかし目が見えたところで、見える不安というのもある。昨日のことだ。車の運転中ガソリン切れマークが点灯された。まぁ、何とかたどり着くだろう、と気にせず進む。1キロ…2キロ…3キロ…4キロ…そういえば、たしか以前、知人にガソリンマークついても20キロは走ると聞いた覚えがあったので、まだまだ気にせず走行していた。しかし10キロ…15キロ走らせていたら、気が気じゃない。アクセルをぐっと踏み込む勇気がでない。エンジン音がフォ~っと扇風機の送風のような力量だ。当分、走らせても明るいGスタンドの看板は見えない。ヤバイヨ、ヤバイヨ~ 気持ちはもはや、バラエティ番組でいじめられている出川みたいだ。20キロを過ぎた…停まった場合のことを考えてた。行ける所まで行こう…21…23…24…後ろの車に気を使いながらやっと見つけたGスタンドの所まで持つか恐る恐る走らせる。ついにスタンドに到着。ランプ点灯後、29キロだった。いったい、何キロ持つのだろうか?しかし、もう試しはしないし、余裕は欲しいと思った。何年か前にも雲仙からの戻り、山道越えガソリンないまま走らせたことがある。確かにいつ停まるか解らないまま走行するのは緊張感やスリルを味わうこともいいが、やはり余裕かな…。