東京で初となるユン・ドンジュ記念碑、10月立教大学キャンパスに設置
立教大学と延世大学の協力で詩人の業績を永遠に称える
東京で初となるユン・ドンジュ記念碑、10月立教大学キャンパスに設置
立教大学と延世大学の協力で詩人の業績を永遠に称える
東京の立教大学に詩人ユン・ドンジュの記念碑、10月に除幕式開催 < 政治・社会 /
Politics & Society < 韓国の注目トピック < 기사본문 - MHN / 엠에이치앤 配信より
https://www.mhnse.com/news/articleView.html?idxno=464200
日本・東京の立教大学に、詩人ユン・ドンジュ(尹東柱)の記念碑が建立されることが分かった。
豊島区池袋に位置する立教大学は、今年10月11日にユン・ドンジュ記念碑の除幕式を開催すると9月25日に明らかにした。立教大学は、ユン・ドンジュが延禧専門学校(現在の延世大学)を卒業後、日本留学の際に最初に入学した大学である。
ユン・ドンジュは立教大学文学部で学びながら「やさしく書かれた詩」「白い影」「流れる街」など5編の詩を残している。これらの詩は、彼が友人のカン・チョジュン(姜処中)に宛てた手紙を通じて伝えられ、立教大学のシンボルマークが印刷された便箋に記されていたため、詩が書かれた場所や時期が比較的明らかとなっている。
原本の手紙は現在、延世大学が所蔵しているが、立教大学は延世大学の協力を得てその複製を大学の記念館で常設展示し、ユン・ドンジュを顕彰してきた。
記念碑は横長の長方形で、中央にユン・ドンジュの写真、左右に彼の略歴と簡単な解説、さらに彼がハングルで残した「やさしく書かれた詩」とその日本語翻訳が刻まれる。また、記念碑にはQRコードも付与されており、スマートフォンをかざせば詩人の人生や作品の詳細な解説を閲覧することができる。
立教大学の西原廉太(ニシハラ・レンタ)学長は「詳細な調査は行っていないが、東京にユン・ドンジュの記念碑はこれまでなかったと思う」と語った。
また、ユン・ドンジュ詩人の甥であるユン・インソク(尹仁錫)成均館大学名誉教授も「東京では初めて建立される記念碑だと承知している。立教大学が難しい決断をしてくれた」と感慨を述べた。
ユン・ドンジュの詩碑や記念碑は、彼のもう一つの日本での母校である京都の同志社大学に主に建立されている。
同志社大学には1995年に詩碑が建てられており、現在は京都芸術大学のキャンパスに改装された
ユン・ドンジュの下宿先跡にも詩碑がある。
さらに、同志社大学在学中に友人たちとピクニックして最後の写真を撮った京都・宇治川のほとりには、
2017年に地元の文学ファンや地域住民らが中心となって建立した記念碑「記憶と和解の碑」も存在する。
今回の記念碑除幕式にはユン・インソク成均館大学名誉教授や
ユン・ドンソプ(尹東燮)延世大学総長らが出席する予定だ。
また、日本文学作家のイバラキ・ノリコ(茨木のり子、1926~2006年)は、
エッセイの中でユン・ドンジュの詩を引用し、その作品が教科書にも掲載されるなど、
日本でもユン・ドンジュの知名度は高い。
在日同胞を対象に奨学活動を行う韓国教育財団と立教大学外国語教育研究センターは、
記念碑の除幕式に合わせ、「詩人ユン・ドンジュとともにする立教の秋」と題した
詩の朗読会および詩画大会も同大学で開催する。
「この記事は、元の韓国語版をAIの助けを借りて翻訳し、その後、ネイティブの記者が編集しました。」
写真=Yonhap News, 延世大学博物館
키워드
#ユンドンジュ
#リッキョウダイガク
#延世大学
#イバラキノリコ
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公開イベント「詩人 尹東柱に出逢う立教の秋・2025~朗唱・詩画発表会~」
公開イベント「詩人 尹東柱に出逢う立教の秋・2025~朗唱・詩画発表会~」 | 立教大学 配信より
https://www.rikkyo.ac.jp/events/2025/10/mknpps000003acps.html
韓国教育財団 主催
事前申込要(発表会応募者のみ)
INFORMATION
2025年10月11日(土)11:00~14:30
池袋キャンパス 太刀川記念館1階 ロビー、3階 カンファレンス・ルーム
詩人尹東柱の逝去80年および本学での記念碑の設立を記念し、詩の朗唱会と詩画の展示会を実施する。
朗唱会の発表者は韓国語、日本語、中国語、英語いずれかの言語による詩の朗唱とともに、
詩の解釈や尹東柱および作品への思いについて日本語でスピーチを行う。
詩画作成者は尹東柱の詩を解釈し、絵を通して表現する。
朗唱とスピーチ、そして詩画の鑑賞を通して、発表者のみならずイベント参加者全員で、
記念碑の設置目的である平和構築と維持・発展を希求する姿勢および
日韓の友好関係を深める姿勢を共有する。
なお、朗唱会は太刀川記念館カンファレンス・ルームにて11時30分から、
詩画展示会は同1階ロビーにて11時から実施する。
司会
本学外国語教育研究センター教授
佐々木 正徳
埼玉韓国教育院院長
崔 守亨(チェ スヒョン) 氏
詳細情報
名称
公開イベント「詩人 尹東柱に出逢う立教の秋・2025~朗唱・詩画発表会~」
対象者
本学学生、教職員、校友、一般
申し込み
参加費 無料
当日参加者:事前申し込み 不要
発表会応募者:事前申し込み 必要
【申込期間】
8月28日(木)~9月5日(金)
申請書はこちら
主催
韓国教育財団
共催
外国語教育研究センター
後援
駐日本国大韓民国大使館、詩人尹東柱を記念する立教の会、同志社大学「尹東柱を偲ぶ会」、延世大学校尹東柱記念事業会、大韓航空、東遠ジャパン株式会社、聯合ニュース、西日本新聞社
お問い合わせ
外国語教育研究センター教授
佐々木 正徳
E-mail:kingaminga1977@rikkyo.ac.jp
私のコメント : 令和7年9月27日、立教大学においては、駐日本国大韓民国大使館、詩人尹東柱を記念する立教の会、同志社大学「尹東柱を偲ぶ会」、延世大学校尹東柱記念事業会、大韓航空、東遠ジャパン株式会社、聯合ニュース、西日本新聞社 後援のもと、詩人尹東柱の逝去80年および立教大学での記念碑の設立を記念し、詩の朗唱会と詩画の展示会を実施される。
韓国で国民的な人気を誇る詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ、1917~1945)は、日本に渡り、立教大や同志社大で学んだ。ハングルで詩をつくったとして同志社大在学中に治安維持法違反の疑いで逮捕された後、昭和20年に懲役2年の刑が確定。昭和20年2月16日に福岡刑務所で獄死した。
立教大学と延世大学の協力で詩人の業績を永遠に称える
東京の立教大学に詩人ユン・ドンジュの記念碑、10月に除幕式開催 < 政治・社会 /
Politics & Society < 韓国の注目トピック < 기사본문 - MHN / 엠에이치앤 配信より
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日本・東京の立教大学に、詩人ユン・ドンジュ(尹東柱)の記念碑が建立されることが分かった。
豊島区池袋に位置する立教大学は、今年10月11日にユン・ドンジュ記念碑の除幕式を開催すると9月25日に明らかにした。立教大学は、ユン・ドンジュが延禧専門学校(現在の延世大学)を卒業後、日本留学の際に最初に入学した大学である。
ユン・ドンジュは立教大学文学部で学びながら「やさしく書かれた詩」「白い影」「流れる街」など5編の詩を残している。これらの詩は、彼が友人のカン・チョジュン(姜処中)に宛てた手紙を通じて伝えられ、立教大学のシンボルマークが印刷された便箋に記されていたため、詩が書かれた場所や時期が比較的明らかとなっている。
原本の手紙は現在、延世大学が所蔵しているが、立教大学は延世大学の協力を得てその複製を大学の記念館で常設展示し、ユン・ドンジュを顕彰してきた。
記念碑は横長の長方形で、中央にユン・ドンジュの写真、左右に彼の略歴と簡単な解説、さらに彼がハングルで残した「やさしく書かれた詩」とその日本語翻訳が刻まれる。また、記念碑にはQRコードも付与されており、スマートフォンをかざせば詩人の人生や作品の詳細な解説を閲覧することができる。
立教大学の西原廉太(ニシハラ・レンタ)学長は「詳細な調査は行っていないが、東京にユン・ドンジュの記念碑はこれまでなかったと思う」と語った。
また、ユン・ドンジュ詩人の甥であるユン・インソク(尹仁錫)成均館大学名誉教授も「東京では初めて建立される記念碑だと承知している。立教大学が難しい決断をしてくれた」と感慨を述べた。
ユン・ドンジュの詩碑や記念碑は、彼のもう一つの日本での母校である京都の同志社大学に主に建立されている。
同志社大学には1995年に詩碑が建てられており、現在は京都芸術大学のキャンパスに改装された
ユン・ドンジュの下宿先跡にも詩碑がある。
さらに、同志社大学在学中に友人たちとピクニックして最後の写真を撮った京都・宇治川のほとりには、
2017年に地元の文学ファンや地域住民らが中心となって建立した記念碑「記憶と和解の碑」も存在する。
今回の記念碑除幕式にはユン・インソク成均館大学名誉教授や
ユン・ドンソプ(尹東燮)延世大学総長らが出席する予定だ。
また、日本文学作家のイバラキ・ノリコ(茨木のり子、1926~2006年)は、
エッセイの中でユン・ドンジュの詩を引用し、その作品が教科書にも掲載されるなど、
日本でもユン・ドンジュの知名度は高い。
在日同胞を対象に奨学活動を行う韓国教育財団と立教大学外国語教育研究センターは、
記念碑の除幕式に合わせ、「詩人ユン・ドンジュとともにする立教の秋」と題した
詩の朗読会および詩画大会も同大学で開催する。
「この記事は、元の韓国語版をAIの助けを借りて翻訳し、その後、ネイティブの記者が編集しました。」
写真=Yonhap News, 延世大学博物館
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#ユンドンジュ
#リッキョウダイガク
#延世大学
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公開イベント「詩人 尹東柱に出逢う立教の秋・2025~朗唱・詩画発表会~」
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韓国教育財団 主催
事前申込要(発表会応募者のみ)
INFORMATION
2025年10月11日(土)11:00~14:30
池袋キャンパス 太刀川記念館1階 ロビー、3階 カンファレンス・ルーム
詩人尹東柱の逝去80年および本学での記念碑の設立を記念し、詩の朗唱会と詩画の展示会を実施する。
朗唱会の発表者は韓国語、日本語、中国語、英語いずれかの言語による詩の朗唱とともに、
詩の解釈や尹東柱および作品への思いについて日本語でスピーチを行う。
詩画作成者は尹東柱の詩を解釈し、絵を通して表現する。
朗唱とスピーチ、そして詩画の鑑賞を通して、発表者のみならずイベント参加者全員で、
記念碑の設置目的である平和構築と維持・発展を希求する姿勢および
日韓の友好関係を深める姿勢を共有する。
なお、朗唱会は太刀川記念館カンファレンス・ルームにて11時30分から、
詩画展示会は同1階ロビーにて11時から実施する。
司会
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佐々木 正徳
埼玉韓国教育院院長
崔 守亨(チェ スヒョン) 氏
詳細情報
名称
公開イベント「詩人 尹東柱に出逢う立教の秋・2025~朗唱・詩画発表会~」
対象者
本学学生、教職員、校友、一般
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参加費 無料
当日参加者:事前申し込み 不要
発表会応募者:事前申し込み 必要
【申込期間】
8月28日(木)~9月5日(金)
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後援
駐日本国大韓民国大使館、詩人尹東柱を記念する立教の会、同志社大学「尹東柱を偲ぶ会」、延世大学校尹東柱記念事業会、大韓航空、東遠ジャパン株式会社、聯合ニュース、西日本新聞社
お問い合わせ
外国語教育研究センター教授
佐々木 正徳
E-mail:kingaminga1977@rikkyo.ac.jp
私のコメント : 令和7年9月27日、立教大学においては、駐日本国大韓民国大使館、詩人尹東柱を記念する立教の会、同志社大学「尹東柱を偲ぶ会」、延世大学校尹東柱記念事業会、大韓航空、東遠ジャパン株式会社、聯合ニュース、西日本新聞社 後援のもと、詩人尹東柱の逝去80年および立教大学での記念碑の設立を記念し、詩の朗唱会と詩画の展示会を実施される。
韓国で国民的な人気を誇る詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ、1917~1945)は、日本に渡り、立教大や同志社大で学んだ。ハングルで詩をつくったとして同志社大在学中に治安維持法違反の疑いで逮捕された後、昭和20年に懲役2年の刑が確定。昭和20年2月16日に福岡刑務所で獄死した。
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新島襄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より
新島 襄
にいじま じょう
個人情報
本名 新島 七五三太
別名 Joseph Hardy Neesima
出生 1843年2月12日
日本・武蔵国江戸神田(現・東京都千代田区神田)
死去 1890年1月23日(46歳没)
日本・神奈川県淘綾郡大磯町
墓所 同志社墓地(京都府京都市左京区)
国籍 日本
教派・教会名 会衆派教会
両親 父:新島民治
母:新島とみ
配偶者 新島八重
職業 教育者、宗教家
出身校 アマースト大学
アンドーヴァー神学校
新島 襄(にいじま じょう、英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日(天保14年1月14日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、幕末から明治時代のクリスチャン、教育者である。出生名は七五三太(しめた)、諱は敬幹(けいかん[要検証 – ノート])。
江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてフィリップス・アカデミー(高校)、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
生涯
出自
新島家は元々中島家を名乗っており、安中氏の家臣だったが永禄6年(1563年)に安中城が落城した際に郷原村に土着し農民となったという。宝暦年間(1751年 - 1764年)に中島磯八が板倉勝清に召し出され安中藩の足軽になった。磯八の長男・忠七も安中藩の足軽・同心を勤めたが文化10年(1813年)に刃傷事件を起こし家出したため忠七の跡取り・秀八も押込を命じられた。翌年許された中島秀八は名を新島弁治に改め、のちに徒士格取立となった。弁治の子・民治が襄の父である[1]。
幼少時代
天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸上屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる[2]。母は武州浦和宿のとみ。通称は七五三太(しめた)。祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたとも[3]、正月の注連縄が張ってあったことにちなむとも言われる[4]。
安政3年(1857年)、学者大名として知られた安中藩主・板倉勝明の命で菅沼総蔵・岡村喜四郎とともに田島順輔から蘭学を学ぶ。翌年4月、板倉勝明が死去、12月15日に元服する。田島順輔が長崎に出張し蘭学を学ぶのをやめ、翌年から川田剛に漢学の教えを受けた[5]。
万延元年(1860年)11月に幕府の軍艦操練所に入学し、航海術・英学・数学などを学んだ。また文久2年(1862年)9月甲賀源吾に入門し西洋兵学や測量術・算術を学ぶことを藩に願い出て許可されている[6]。この頃『聯邦志略』を読みアメリカ合衆国の大統領制を知り衝撃を受ける[7]。
ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ[8]。
函館潜伏 - 渡米
新島襄海外渡航の地碑(函館市大町)
脱国の扮装[9]
元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。
6月14日(7月18日)、函館港から米船ベルリン号で出国する[7]。ベルリン号の中で新島は武士の命とされるまげを切り落とした。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った[注釈 1]。ワイルド・ローヴァー号の中では船長に上海で乗せてくれたお礼にと自分が持っていた長い刀をわたした。そのお返しに英語訳の聖書をくれた。1865年(慶応元年)7月20日ボストン着。
ワイルド・ローヴァー号の船主、アルフィーアス・ハーディー夫妻の援助をうけ、1865年10月30日、ハーディーが理事を務めるフィリップス・アカデミーに入学することができた[11]。
岩倉使節団
アーモスト大学(1875年頃)
1866年(慶応2年)12月30日、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける[12]。
翌1867年(慶応3年)6月にフィリップス・アカデミーを卒業[12]。
1870年(明治3年)7月14日にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)[13]。これは日本人初の学士の学位取得であった。新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。また、同大学では哲学教授ジュリアス・シーリーからも影響を受けている。同年9月、アンドヴァー神学校に入学[14]。
当初、密航者として渡米した襄であったが、1871年(明治4年)3月15日にワシントン駐在少弁務使・森有礼に面会し、8月22日に留学免許状とパスポートを送られ正式な留学生として認可された[15]。
明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
宣教師任命 - 帰国
グレース教会(バーモント州ラットランド)
1873年(明治6年)1月に岩倉使節団での活動を終えた新島はアンドーヴァー神学校に復学し、翌年7月2日、同校を卒業する[14]。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。同年9月24日、ボストンのマウント・バーノン教会(英語版)で按手礼を受け、牧師たるの資格を与えられた[16]。
新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)であった[17]。1874年(明治7年)10月9日、バーモント州ラットランドのグレース教会(英語版)で開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えて5,000ドルの寄付の規約を得た(日本円で2,000,000円)。
新島が最初に洗礼を授けた安中教会の30人と共に(明治11年3月30日)
10月31日、新島はコロラド号でサンフランシスコを出港し、太平洋を横断して翌月26日に横浜に帰着し、新島よりも一足先に日本で活動していたアメリカン・ボード宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの出迎えを受けた[18]。
明治7年(1874年)11月28日深夜、10年ぶりに安中に到着。新島の帰国は高い関心を集め、翌月24日までの27日間の滞在中、安中学校や龍昌寺を会場にキリスト教を講演し、300人の聴衆を集めた[19]。その集会で旧藩士ら30人余がキリスト教を学ぶことを決意し金を集めて新島に書物購入を依頼した。新島は中国語訳聖書を送り、明治8年(1875年)1月10日から安中での聖書会読が始まった[20]。新島は動物愛好家の一面があり帰国の際、アライグマを日本に初めて持ち込んだという逸話が安中史誌に記載されているが詳しい詳細は残されていない。
同志社設立
同志社英学校三十番教室(開校当初は正課で聖書を教えることは許されなかったため新島名義で豆腐屋の廃屋を購入し、課外授業の形で聖書の講義を行った)[21]
新島襄旧邸・京都市上京区
結婚間もない新島襄と八重
明治8年(1875年)1月、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地と定めた[22]。
明治8年(1875年)11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より寺町通丸太町上ル松陰町の屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保し[注釈 2]、府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島とジェローム・デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。
また、この時の縁で翌明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚する。
同年6月15日、山本覚馬が取得していた相国寺門前の旧薩摩屋敷(5800坪)で校舎2棟の新築工事に着手し、竣工後の9月に移転した。金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰、不破惟次郎ら熊本バンドと呼ばれる青年達が同志社英学校に入学したのもこの頃である[23]。また同年12月3日、新島の仮寓で西京第二公会(同志社教会の前身)を設立[24]。
明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。女学校スタイルはメアリー・リヨンが設立したマウント・ホリヨーク大学を模している。
明治11年(1878年)3月30日夜、安中の便覧舎で千木良昌庵、湯浅治郎ら30名に洗礼を授け、安中教会(現・日本基督教団安中教会)を設立した[25]。
大学設立運動
1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部、新島は前から2列目の右から4人目、左隣は内村鑑三
新島襄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より
新島 襄
にいじま じょう
個人情報
本名 新島 七五三太
別名 Joseph Hardy Neesima
出生 1843年2月12日
日本・武蔵国江戸神田(現・東京都千代田区神田)
死去 1890年1月23日(46歳没)
日本・神奈川県淘綾郡大磯町
墓所 同志社墓地(京都府京都市左京区)
国籍 日本
教派・教会名 会衆派教会
両親 父:新島民治
母:新島とみ
配偶者 新島八重
職業 教育者、宗教家
出身校 アマースト大学
アンドーヴァー神学校
新島 襄(にいじま じょう、英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日(天保14年1月14日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、幕末から明治時代のクリスチャン、教育者である。出生名は七五三太(しめた)、諱は敬幹(けいかん[要検証 – ノート])。
江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてフィリップス・アカデミー(高校)、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
生涯
出自
新島家は元々中島家を名乗っており、安中氏の家臣だったが永禄6年(1563年)に安中城が落城した際に郷原村に土着し農民となったという。宝暦年間(1751年 - 1764年)に中島磯八が板倉勝清に召し出され安中藩の足軽になった。磯八の長男・忠七も安中藩の足軽・同心を勤めたが文化10年(1813年)に刃傷事件を起こし家出したため忠七の跡取り・秀八も押込を命じられた。翌年許された中島秀八は名を新島弁治に改め、のちに徒士格取立となった。弁治の子・民治が襄の父である[1]。
幼少時代
天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸上屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる[2]。母は武州浦和宿のとみ。通称は七五三太(しめた)。祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたとも[3]、正月の注連縄が張ってあったことにちなむとも言われる[4]。
安政3年(1857年)、学者大名として知られた安中藩主・板倉勝明の命で菅沼総蔵・岡村喜四郎とともに田島順輔から蘭学を学ぶ。翌年4月、板倉勝明が死去、12月15日に元服する。田島順輔が長崎に出張し蘭学を学ぶのをやめ、翌年から川田剛に漢学の教えを受けた[5]。
万延元年(1860年)11月に幕府の軍艦操練所に入学し、航海術・英学・数学などを学んだ。また文久2年(1862年)9月甲賀源吾に入門し西洋兵学や測量術・算術を学ぶことを藩に願い出て許可されている[6]。この頃『聯邦志略』を読みアメリカ合衆国の大統領制を知り衝撃を受ける[7]。
ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ[8]。
函館潜伏 - 渡米
新島襄海外渡航の地碑(函館市大町)
脱国の扮装[9]
元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。
6月14日(7月18日)、函館港から米船ベルリン号で出国する[7]。ベルリン号の中で新島は武士の命とされるまげを切り落とした。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った[注釈 1]。ワイルド・ローヴァー号の中では船長に上海で乗せてくれたお礼にと自分が持っていた長い刀をわたした。そのお返しに英語訳の聖書をくれた。1865年(慶応元年)7月20日ボストン着。
ワイルド・ローヴァー号の船主、アルフィーアス・ハーディー夫妻の援助をうけ、1865年10月30日、ハーディーが理事を務めるフィリップス・アカデミーに入学することができた[11]。
岩倉使節団
アーモスト大学(1875年頃)
1866年(慶応2年)12月30日、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける[12]。
翌1867年(慶応3年)6月にフィリップス・アカデミーを卒業[12]。
1870年(明治3年)7月14日にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)[13]。これは日本人初の学士の学位取得であった。新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。また、同大学では哲学教授ジュリアス・シーリーからも影響を受けている。同年9月、アンドヴァー神学校に入学[14]。
当初、密航者として渡米した襄であったが、1871年(明治4年)3月15日にワシントン駐在少弁務使・森有礼に面会し、8月22日に留学免許状とパスポートを送られ正式な留学生として認可された[15]。
明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
宣教師任命 - 帰国
グレース教会(バーモント州ラットランド)
1873年(明治6年)1月に岩倉使節団での活動を終えた新島はアンドーヴァー神学校に復学し、翌年7月2日、同校を卒業する[14]。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。同年9月24日、ボストンのマウント・バーノン教会(英語版)で按手礼を受け、牧師たるの資格を与えられた[16]。
新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)であった[17]。1874年(明治7年)10月9日、バーモント州ラットランドのグレース教会(英語版)で開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えて5,000ドルの寄付の規約を得た(日本円で2,000,000円)。
新島が最初に洗礼を授けた安中教会の30人と共に(明治11年3月30日)
10月31日、新島はコロラド号でサンフランシスコを出港し、太平洋を横断して翌月26日に横浜に帰着し、新島よりも一足先に日本で活動していたアメリカン・ボード宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの出迎えを受けた[18]。
明治7年(1874年)11月28日深夜、10年ぶりに安中に到着。新島の帰国は高い関心を集め、翌月24日までの27日間の滞在中、安中学校や龍昌寺を会場にキリスト教を講演し、300人の聴衆を集めた[19]。その集会で旧藩士ら30人余がキリスト教を学ぶことを決意し金を集めて新島に書物購入を依頼した。新島は中国語訳聖書を送り、明治8年(1875年)1月10日から安中での聖書会読が始まった[20]。新島は動物愛好家の一面があり帰国の際、アライグマを日本に初めて持ち込んだという逸話が安中史誌に記載されているが詳しい詳細は残されていない。
同志社設立
同志社英学校三十番教室(開校当初は正課で聖書を教えることは許されなかったため新島名義で豆腐屋の廃屋を購入し、課外授業の形で聖書の講義を行った)[21]
新島襄旧邸・京都市上京区
結婚間もない新島襄と八重
明治8年(1875年)1月、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地と定めた[22]。
明治8年(1875年)11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より寺町通丸太町上ル松陰町の屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保し[注釈 2]、府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島とジェローム・デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。
また、この時の縁で翌明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚する。
同年6月15日、山本覚馬が取得していた相国寺門前の旧薩摩屋敷(5800坪)で校舎2棟の新築工事に着手し、竣工後の9月に移転した。金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰、不破惟次郎ら熊本バンドと呼ばれる青年達が同志社英学校に入学したのもこの頃である[23]。また同年12月3日、新島の仮寓で西京第二公会(同志社教会の前身)を設立[24]。
明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。女学校スタイルはメアリー・リヨンが設立したマウント・ホリヨーク大学を模している。
明治11年(1878年)3月30日夜、安中の便覧舎で千木良昌庵、湯浅治郎ら30名に洗礼を授け、安中教会(現・日本基督教団安中教会)を設立した[25]。
大学設立運動
1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部、新島は前から2列目の右から4人目、左隣は内村鑑三
明治13年(1880年)から大学設立の準備を始める。同年2月17日に快風丸での旧知を訪ねるため、かつての備中松山藩であった岡山県高梁町(現在の高梁市)へと赴き、滞在中に中川横太郎の勧めで伝道と文化改革を目的とした演説を行う[26]。この時の演説は、のちに備中松山の地で高梁基督教会堂の設立発起員の一人となり女子教育に注力する事になる、同地の婦人部会の代表であった福西志計子に深い影響を与えた。
明治16年(1883年)5月には東京に赴き、新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加する。
明治17年(1884年)4月6日、2度目の海外渡航に出発する。ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会っている。同年8月6日にはスイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れ、二通の遺書を記した[27]。このときは奇跡的に体力が回復し、しばらく静養したのち9月に太西洋を横断してアメリカに上陸し、ハーディー夫妻やシーリー教授らとの再会を果たした。滞米中はアメリカン・ボードの大会に出席したり、各地の大学を参観するなどの多忙な日々を過ごし、同じく滞米中の内村鑑三にアーモスト大学への選科入学を勧めたりもした[28]。明治18年(1885年)12月に帰国。
明治19年(1886年)9月には医学校構想の一環として同志社病院と京都看病婦学校を設立。キリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この病院と看病婦学校にて看護指導に当たることとなったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。
明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロンでもあった土倉であろうと推測される[29]。
また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ「同志社大学設立の旨意」を起草し、自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立への協力を訴えた。
晩年
新島は同じキリスト教でもローマ・カトリックやギリシャ正教、ロシア正教会などはまったく評価しなかった。プロテスタントについても新島の晩年に教会合同運動が起きた時に自らの組合教会を「共和政府主義地方分権ノ教会」、一致教会を「寡人政府主義中央集権ノ教会」と規定し、デイヴィスや徳富蘇峰らとともに教会合同に反対してこれを断念させた[30]。
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。愛弟子の一人の不破唯次郎の妻・ユウ[注釈 3]の看護を受けるが、回復せず明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」[27]。享年48。
新島の遺体は汽車で京都に運ばれ、1月27日13時より同志社礼拝堂前で葬儀が営まれた。同志社関係者や京都府知事北垣国道、片岡健吉、植村正久をはじめ約4,000人が参列した。埋葬式は京都東山若王子山頂で行われ、中村栄助が司会を務め、安部磯雄が祈禱、ラーネッドが祝禱を行った[31]。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。
新島襄の葬儀
新島襄の墓
死後
新島襄の記念切手
明治40年(1907年)、帝国教育会から六大教育家の一人として顕彰され、大正4年(1915年)には従四位を追贈された[32]。
昭和25年(1950年)11月22日、郵政省から新島襄の8円切手(文化人シリーズ)が発行された[33]。
新島亡き後の同志社はアメリカン・ボードとの対立や入学者減少等によって一時経営難に陥ったが、1920年(大正9年)4月に大学令にもとづく大学として正式に認可された。昭和の戦争期を乗り越えて1948年(昭和23年)に新制大学へ移行し、2024年(令和6年)現在の同志社大学は14学部、大学院16研究科および3研究所を擁し、今出川と京田辺を主要校地としている。
妻・八重
妻の八重とは互いに尊重し合い、夫婦仲がとても良かった。男性と対等に生きられる自立した女性との結婚を望んでいた[34]襄は、山本覚馬の家を訪ねたとき、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八重の姿を見て、その常識に拘らない姿勢が気に入って結婚を決意したという[34]。八重は、その男勝りの性格で度々周囲と確執を生むが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていた。アメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と綴っている[34]。
人物・逸話
新島襄の書斎(京都府京都市、新島旧邸)
新島襄旧宅(群馬県安中市)
明治16年(1883年)5月には東京に赴き、新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加する。
明治17年(1884年)4月6日、2度目の海外渡航に出発する。ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会っている。同年8月6日にはスイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れ、二通の遺書を記した[27]。このときは奇跡的に体力が回復し、しばらく静養したのち9月に太西洋を横断してアメリカに上陸し、ハーディー夫妻やシーリー教授らとの再会を果たした。滞米中はアメリカン・ボードの大会に出席したり、各地の大学を参観するなどの多忙な日々を過ごし、同じく滞米中の内村鑑三にアーモスト大学への選科入学を勧めたりもした[28]。明治18年(1885年)12月に帰国。
明治19年(1886年)9月には医学校構想の一環として同志社病院と京都看病婦学校を設立。キリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この病院と看病婦学校にて看護指導に当たることとなったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。
明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロンでもあった土倉であろうと推測される[29]。
また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ「同志社大学設立の旨意」を起草し、自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立への協力を訴えた。
晩年
新島は同じキリスト教でもローマ・カトリックやギリシャ正教、ロシア正教会などはまったく評価しなかった。プロテスタントについても新島の晩年に教会合同運動が起きた時に自らの組合教会を「共和政府主義地方分権ノ教会」、一致教会を「寡人政府主義中央集権ノ教会」と規定し、デイヴィスや徳富蘇峰らとともに教会合同に反対してこれを断念させた[30]。
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。愛弟子の一人の不破唯次郎の妻・ユウ[注釈 3]の看護を受けるが、回復せず明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」[27]。享年48。
新島の遺体は汽車で京都に運ばれ、1月27日13時より同志社礼拝堂前で葬儀が営まれた。同志社関係者や京都府知事北垣国道、片岡健吉、植村正久をはじめ約4,000人が参列した。埋葬式は京都東山若王子山頂で行われ、中村栄助が司会を務め、安部磯雄が祈禱、ラーネッドが祝禱を行った[31]。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。
新島襄の葬儀
新島襄の墓
死後
新島襄の記念切手
明治40年(1907年)、帝国教育会から六大教育家の一人として顕彰され、大正4年(1915年)には従四位を追贈された[32]。
昭和25年(1950年)11月22日、郵政省から新島襄の8円切手(文化人シリーズ)が発行された[33]。
新島亡き後の同志社はアメリカン・ボードとの対立や入学者減少等によって一時経営難に陥ったが、1920年(大正9年)4月に大学令にもとづく大学として正式に認可された。昭和の戦争期を乗り越えて1948年(昭和23年)に新制大学へ移行し、2024年(令和6年)現在の同志社大学は14学部、大学院16研究科および3研究所を擁し、今出川と京田辺を主要校地としている。
妻・八重
妻の八重とは互いに尊重し合い、夫婦仲がとても良かった。男性と対等に生きられる自立した女性との結婚を望んでいた[34]襄は、山本覚馬の家を訪ねたとき、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八重の姿を見て、その常識に拘らない姿勢が気に入って結婚を決意したという[34]。八重は、その男勝りの性格で度々周囲と確執を生むが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていた。アメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と綴っている[34]。
人物・逸話
新島襄の書斎(京都府京都市、新島旧邸)
新島襄旧宅(群馬県安中市)
徳富蘇峰の仲介により大隈重信と親交を持つことになる。
今日、同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)制度があるのはそのためである。
明治13年(1880年)4月13日、朝礼の際、自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒に訓した。これは「自責の杖」事件と呼ばれる。徳富蘇峰は、この事件の責任を感じ卒業目前で同志社を中退したが、新島に対する敬愛の念は生涯変わらず、同志社大学設立運動の中心的な役割を果たした。
襄の臨終に八重とともに立ち会った徳富蘇峰は八重に「今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て私につきあつて下さい。」と述べ、貴族院議員の歳費は封を切らずに八重に贈り、八重が亡くなるまでその生活を支えた。
群馬県の上毛かるたのなかに新島が描かれた取り札がある。「平和の使徒 新島襄(へいわのつかい にいじまじょう)」
箱館に渡る前に、青森県下北半島の下風呂温泉に寄港し、当地の見聞を「函館紀行」に書きとめた。下風呂温泉にある海峡いさりび公園に、「新島襄寄港の地」碑がある。
ワシントン大聖堂には日本人として、賀川豊彦とともに彫像が掲げられている(1935年設置)。
参考図書
『新島襄全集』 全10巻(11分冊)、同編集委員会、同朋舎、1983-96年
井上勝也『新島襄 人と思想』晃洋書房 1990年
現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善 2000年)
本井康博『新島襄と建学精神』(同志社大学出版部 2005年
『新島襄の手紙』 同志社編、岩波文庫、2005年
本井康博 新島襄を語るシリーズ(既刊16冊)思文閣出版 2005年~16年
『新島襄 教育宗教論集』 同志社編、岩波文庫、2010年
伊藤彌彦『なるほど新島襄』萌書房 2012年
同志社編『新島襄自伝』同志社編、岩波文庫、2013年
和田洋一『新島襄』(岩波現代文庫、2015年)
沖田行司編『新編・同志社の思想家たち』上下 晃洋書房 2018年
同志社大学良心学研究センター『新島襄365』良心学研究センター2019年
本井康博 『同志社を掘る -創立150年に向けて- 』2020年
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.労働市場 (1980年) (日経文庫 経済学入門シリーズ)
西川 俊作/日本経済新聞社
.計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ)
西川 俊作/毎日新聞社
.保育所保育指針解説書―2008年3月発表
ひかりのくに
テレコム産業の競争と混沌 米国通信政策、迷走の10年
Robet W. Crandall,情報通信総合研究所,神野 新,佐々木 勉/NTT出版
.数量経済史の原点―近代移行期の長州経済 (慶應義塾大学産業研究所選書)
西川 俊作/慶應義塾大学出版会
.福沢諭吉と三人の後進たち (エコノブックス (9))
西川 俊作/日本評論社
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「岩波文庫 34-102-1 ケネー 経済表 戸田正雄・増井健一 訳」( における、私からの、その解説について・・・)
TABLEAUX ECONOMIQUES Franqois Quesnay
はしがき
本書は、フランソア・ケネー(F.Quesnay)の「経済表」(Tableau Economique)の初期と後期の作を訳載したものである。
すなわち、初期の作として
(一)経済表 第一版の図式の部分、
(二)第二版の全部(図式と「経済表の説明」Explication du Tableau Economiqueと「シュリ―氏王国経済の抜粋」)、最終の作として
(三)「経済表の分析」と「重要考察」、および「農業国の経済的統治の一般原則」を包含している。
以上のケネー述作をもって、その経済学説の心髄をつくすものということができよう。
これらを訳出するに当たって土台とした本は、次のとおりである。
(一)については、オンケン著「経済学史」(A.Oncken,Geschichte der Nationa lokonomie, 1902.) の中に挿入されてある写真版。
(二)については、「イギリス経済学協会」刊の写真版。
(三)については、オンケン著「ケネー経済・哲学著作集」。
本訳書はもと昭和八年十一月、岩波文庫の一つとして「増井幸雄・戸田正雄訳、ケネー経済表」と題し刊行された。爾来版を重ねついに紙型が摩滅し、今回新たに組直す必要を生じたのを機会に、文章に改修を施すこととなった。
(中略)
今ここに感慨切なるものがある。故増井幸雄博士を偲ぶと共に、同人と戸田を結ぶ動機となった竹内謙二博士、当初の出版を仲介せられた小泉信三博士に改めて感謝を致し、改版に当たり岩波書店の山鹿、中野、永見の三氏の労を得たことを感謝する次第である。
昭和三十六年五月 訳者 」からの引用です。
フランソア・ケネー(F.Quesnay)の「経済表」(Tableau Economique) 解説に関して、慶応義塾大学 小泉信三博士、増井健一博士から教授、講義も私は、いただき、村田昭治博士からの面授直説を頂戴しているという立場がある。下記の関係書籍も、併せて、内外における学術関係者からは、それを熟読されたいと願う。
令和2年2月7日、山口県庁にて、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長と私は、面談した際に、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長とも、その面談をおこない。過去の、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課宛てに、その審査請求を私が、提出している件にては、その後 その展開があり、その内容に関係している山陰道整備に関する、島根県から山口県を結ぶ山陰道については、国土交通省からは、ことし4月、萩市に新たに事務所を設置し、山口県内での整備を進めていくことともなったために、その内容を踏まえて、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課に対する、そのさらなる確認の案件に関して、私は、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長のもとへ、そのお尋ねも入れた。
令和2年2月6日、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長と私は、対談し、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長とも、個別に、その対談をおこなった。
令和2年2月4日、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長と私は、対談した。
令和2年2月4日、山口県 山口市 山口県庁において、山口県土木建築部 監理課 用地補償班 向野孝之 班長様と対談した。
令和2年2月3日、山口県庁において、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長のもとへ、私から、その公文書開示請求書を提出した際に、私は、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長と懇談し、慶応義塾大学 商学部にて、私の恩師 西川俊作教授が、交通経済学においても、精通されていたが、しかし、慶応義塾大学 商学部 中条潮 助手 (当時) ( 同志社高等学校 出身 ) と 当該 交通経済論については、その論が、異なり、慶応義塾大学 商学部 中条潮 助手(当時) より、私が、その英書購読の講義を受ける際に、私が、大変、苦労をしていた学事内容について、恩師 西川俊作教授からの、その交通経済学の論については、奈良県 奈良交通における観光バス 運行状況、及び、島根県 石見交通における観光バス 運行状況、その山口県下、各 運行状況も、それを例にし、今回、私から、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課へ、その公文書開示請求書を提出した理由に関しての説明も入れた。
〇 ケネー全集 (第1巻)
ケネー/有斐閣
〇 経済思想の歴史―ケネーからシュンペーターまで―
小沼 宗一/創成社
〇 はじめよう 地域産業連関分析 改訂版 事例分析編
土居 英二,浅利 一郎,中野 親徳/日本評論社
〇 はじめよう 地域産業連関分析(改訂版) [基礎編] Excelで初歩から実践まで
土居 英二,浅利 一郎,中野 親德/日本評論社
〇 日中国際産業連関表〈平成19年〉
経済産業省大臣官房調査統計グループ(編集)/経済産業調査会
〇 福沢諭吉著作集〈第8巻〉時事小言・通俗外交論
福沢 諭吉/慶應義塾大学出版会
・〇 慶應義塾大学(商学部) (2020年版大学入試シリーズ) 教学社編集部(編集)/教学社
・〇 過去単シリーズ 慶応義塾大学 医学部 編 2020年版: 過去問英単語 徹底分析 大学入試過去問英単語 (大学入試過去問情報書籍) イノベーションリサーチ株式会社
・〇 新臨床研修歯科医ハンドブック 平成30年度診療報酬改定対応版 廣藤 卓雄(監修),粟野 秀慈(監修),米田 雅裕(編集),松浦 尚志(編集),馬場 篤子(編集),西野 宇信(編集),國領 真也(編集),村岡 宏祐(編集)/医歯薬出版
・〇 歯科ノミクスが日本を救う (One Person~一人の歯科医師~) 上田裕康/中部経済新聞社
・〇 自民党 迂回献金の闇 日歯連事件の真相 東京新聞取材班/角川学芸出版
・〇 政治わが道―藤山愛一郎回想録 (1976年) 藤山 愛一郎/朝日新聞社
・〇 小泉信三選集〈第5巻〉ヨーロッパ・アメリカ (1957年) 小泉 信三/文藝春秋新社
・〇 小泉信三―天皇の師として、自由主義者として (中公新書) 小川原 正道/中央公論新社
・〇 航空輸送 (現代交通経済学叢書) 増井 健一,山内 弘隆/晃洋書房
・〇 政治わが道―藤山愛一郎回想録 (1976年) 藤山 愛一郎/朝日新聞社
・〇 村田昭治マーケティング研究への旅―輝くマーケティングのサクセス・ロードを求めて 村田 昭治/国元書房
・〇 福沢諭吉の横顔 (Keio UP選書) 西川 俊作/慶應義塾大学出版
・〇 労働市場 (1980年) (日経文庫 経済学入門シリーズ) 西川 俊作/日本経済新聞社
・〇 保育所保育指針解説書―2008年3月発表 ひかりのくに
・〇 計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ) 西川 俊作/毎日新聞社
・〇 諸国民の経済成長―総生産高および生産構造 (1977年) サイモン・クズネッツ/ダイヤモンド社
・〇 戦後の経済成長 (1966年) サイモン・クズネッツ/岩波書店
・〇 Analyse de la formule arithmétique (French Edition) Quesnay/null
・〇 ケネー経済表 原表第3版所収版 ケネー/岩波書店
・〇 経済表 (1961年) (岩波文庫) ケネー/岩波書店
・〇 マルクスを巡る知と行為―ケネーから毛沢東まで 寺出 道雄/日本経済評論社
・〇 田中角栄と毛沢東―日中外交暗闘の30年 青木 直人/講談社
・〇 「経済表」以前の諸論稿―「自由論」「明証論」「借地農論」「穀物論」「人間論」「租税論」 (1950年) (古典経済学叢書) フランソア・ケネー/春秋社
・フランス経済理論の発展―ボワキュベール,ケネー,セーの国民所得論 (1962年) J.モリニエ/未来社
・〇 経済科学の創造―『経済表』とフランス革命 (1965年) 平田 清明/岩波書店
・〇 リベラリストの警鐘 (石橋湛山著作集―経済論) 石橋 湛山/東洋経済新報社
・〇 石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1) 石橋 湛山/岩波書店
『ケネー 「経済表」 戸田正雄 増井健一訳』 現在に至る、その「産業連関表分析」対応、説明解説について、慶應義塾大学 教授 増井健一著「交通経済学」東洋経済新報社 P.28 第1章 交通 4 経済における交通 (Ⅱ) ・・・(1) 産業における地域と交通 表1. 商品の購入価格に占める流通費の割合 資料: 文献 U-5、92ページ,1965年 産業連関表を基礎にして国鉄がとりまとめたもの。表2.地域間産業連関表、表3..わが国地域別貨物OD表(1970年度)における各内容文献の説明文 及び、私の恩師 慶應義塾大学 教授 西川俊作 著「計量経済学のすすめ」 毎日新聞社を各参考にされると、今後において、それが理解されやすいのではないかと、私は、個人的に考えている。
.〇 交通經濟總論 (1940年)
増井 幸雄 / 丸善
.〇 交通経済学―交通経済論 (1973年)
増井 健一 / 東洋経済新報社
.〇 計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ)
西川 俊作 / 毎日新聞社
.労働市場 (1980年) (日経文庫 経済学入門シリーズ)
西川 俊作/日本経済新聞社
.計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ)
西川 俊作/毎日新聞社
.保育所保育指針解説書―2008年3月発表
ひかりのくに
テレコム産業の競争と混沌 米国通信政策、迷走の10年
Robet W. Crandall,情報通信総合研究所,神野 新,佐々木 勉/NTT出版
.数量経済史の原点―近代移行期の長州経済 (慶應義塾大学産業研究所選書)
西川 俊作/慶應義塾大学出版会
.福沢諭吉と三人の後進たち (エコノブックス (9))
西川 俊作/日本評論社
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「岩波文庫 34-102-1 ケネー 経済表 戸田正雄・増井健一 訳」( における、私からの、その解説について・・・)
TABLEAUX ECONOMIQUES Franqois Quesnay
はしがき
本書は、フランソア・ケネー(F.Quesnay)の「経済表」(Tableau Economique)の初期と後期の作を訳載したものである。
すなわち、初期の作として
(一)経済表 第一版の図式の部分、
(二)第二版の全部(図式と「経済表の説明」Explication du Tableau Economiqueと「シュリ―氏王国経済の抜粋」)、最終の作として
(三)「経済表の分析」と「重要考察」、および「農業国の経済的統治の一般原則」を包含している。
以上のケネー述作をもって、その経済学説の心髄をつくすものということができよう。
これらを訳出するに当たって土台とした本は、次のとおりである。
(一)については、オンケン著「経済学史」(A.Oncken,Geschichte der Nationa lokonomie, 1902.) の中に挿入されてある写真版。
(二)については、「イギリス経済学協会」刊の写真版。
(三)については、オンケン著「ケネー経済・哲学著作集」。
本訳書はもと昭和八年十一月、岩波文庫の一つとして「増井幸雄・戸田正雄訳、ケネー経済表」と題し刊行された。爾来版を重ねついに紙型が摩滅し、今回新たに組直す必要を生じたのを機会に、文章に改修を施すこととなった。
(中略)
今ここに感慨切なるものがある。故増井幸雄博士を偲ぶと共に、同人と戸田を結ぶ動機となった竹内謙二博士、当初の出版を仲介せられた小泉信三博士に改めて感謝を致し、改版に当たり岩波書店の山鹿、中野、永見の三氏の労を得たことを感謝する次第である。
昭和三十六年五月 訳者 」からの引用です。
フランソア・ケネー(F.Quesnay)の「経済表」(Tableau Economique) 解説に関して、慶応義塾大学 小泉信三博士、増井健一博士から教授、講義も私は、いただき、村田昭治博士からの面授直説を頂戴しているという立場がある。下記の関係書籍も、併せて、内外における学術関係者からは、それを熟読されたいと願う。
令和2年2月7日、山口県庁にて、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長と私は、面談した際に、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長とも、その面談をおこない。過去の、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課宛てに、その審査請求を私が、提出している件にては、その後 その展開があり、その内容に関係している山陰道整備に関する、島根県から山口県を結ぶ山陰道については、国土交通省からは、ことし4月、萩市に新たに事務所を設置し、山口県内での整備を進めていくことともなったために、その内容を踏まえて、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課に対する、そのさらなる確認の案件に関して、私は、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長のもとへ、そのお尋ねも入れた。
令和2年2月6日、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長と私は、対談し、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長とも、個別に、その対談をおこなった。
令和2年2月4日、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 伊藤香織利 副課長と私は、対談した。
令和2年2月4日、山口県 山口市 山口県庁において、山口県土木建築部 監理課 用地補償班 向野孝之 班長様と対談した。
令和2年2月3日、山口県庁において、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長のもとへ、私から、その公文書開示請求書を提出した際に、私は、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課 地域交通班 久保幸代主幹 班長と懇談し、慶応義塾大学 商学部にて、私の恩師 西川俊作教授が、交通経済学においても、精通されていたが、しかし、慶応義塾大学 商学部 中条潮 助手 (当時) ( 同志社高等学校 出身 ) と 当該 交通経済論については、その論が、異なり、慶応義塾大学 商学部 中条潮 助手(当時) より、私が、その英書購読の講義を受ける際に、私が、大変、苦労をしていた学事内容について、恩師 西川俊作教授からの、その交通経済学の論については、奈良県 奈良交通における観光バス 運行状況、及び、島根県 石見交通における観光バス 運行状況、その山口県下、各 運行状況も、それを例にし、今回、私から、山口県 観光スポーツ文化部 交通政策課へ、その公文書開示請求書を提出した理由に関しての説明も入れた。
〇 ケネー全集 (第1巻)
ケネー/有斐閣
〇 経済思想の歴史―ケネーからシュンペーターまで―
小沼 宗一/創成社
〇 はじめよう 地域産業連関分析 改訂版 事例分析編
土居 英二,浅利 一郎,中野 親徳/日本評論社
〇 はじめよう 地域産業連関分析(改訂版) [基礎編] Excelで初歩から実践まで
土居 英二,浅利 一郎,中野 親德/日本評論社
〇 日中国際産業連関表〈平成19年〉
経済産業省大臣官房調査統計グループ(編集)/経済産業調査会
〇 福沢諭吉著作集〈第8巻〉時事小言・通俗外交論
福沢 諭吉/慶應義塾大学出版会
・〇 慶應義塾大学(商学部) (2020年版大学入試シリーズ) 教学社編集部(編集)/教学社
・〇 過去単シリーズ 慶応義塾大学 医学部 編 2020年版: 過去問英単語 徹底分析 大学入試過去問英単語 (大学入試過去問情報書籍) イノベーションリサーチ株式会社
・〇 新臨床研修歯科医ハンドブック 平成30年度診療報酬改定対応版 廣藤 卓雄(監修),粟野 秀慈(監修),米田 雅裕(編集),松浦 尚志(編集),馬場 篤子(編集),西野 宇信(編集),國領 真也(編集),村岡 宏祐(編集)/医歯薬出版
・〇 歯科ノミクスが日本を救う (One Person~一人の歯科医師~) 上田裕康/中部経済新聞社
・〇 自民党 迂回献金の闇 日歯連事件の真相 東京新聞取材班/角川学芸出版
・〇 政治わが道―藤山愛一郎回想録 (1976年) 藤山 愛一郎/朝日新聞社
・〇 小泉信三選集〈第5巻〉ヨーロッパ・アメリカ (1957年) 小泉 信三/文藝春秋新社
・〇 小泉信三―天皇の師として、自由主義者として (中公新書) 小川原 正道/中央公論新社
・〇 航空輸送 (現代交通経済学叢書) 増井 健一,山内 弘隆/晃洋書房
・〇 政治わが道―藤山愛一郎回想録 (1976年) 藤山 愛一郎/朝日新聞社
・〇 村田昭治マーケティング研究への旅―輝くマーケティングのサクセス・ロードを求めて 村田 昭治/国元書房
・〇 福沢諭吉の横顔 (Keio UP選書) 西川 俊作/慶應義塾大学出版
・〇 労働市場 (1980年) (日経文庫 経済学入門シリーズ) 西川 俊作/日本経済新聞社
・〇 保育所保育指針解説書―2008年3月発表 ひかりのくに
・〇 計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ) 西川 俊作/毎日新聞社
・〇 諸国民の経済成長―総生産高および生産構造 (1977年) サイモン・クズネッツ/ダイヤモンド社
・〇 戦後の経済成長 (1966年) サイモン・クズネッツ/岩波書店
・〇 Analyse de la formule arithmétique (French Edition) Quesnay/null
・〇 ケネー経済表 原表第3版所収版 ケネー/岩波書店
・〇 経済表 (1961年) (岩波文庫) ケネー/岩波書店
・〇 マルクスを巡る知と行為―ケネーから毛沢東まで 寺出 道雄/日本経済評論社
・〇 田中角栄と毛沢東―日中外交暗闘の30年 青木 直人/講談社
・〇 「経済表」以前の諸論稿―「自由論」「明証論」「借地農論」「穀物論」「人間論」「租税論」 (1950年) (古典経済学叢書) フランソア・ケネー/春秋社
・フランス経済理論の発展―ボワキュベール,ケネー,セーの国民所得論 (1962年) J.モリニエ/未来社
・〇 経済科学の創造―『経済表』とフランス革命 (1965年) 平田 清明/岩波書店
・〇 リベラリストの警鐘 (石橋湛山著作集―経済論) 石橋 湛山/東洋経済新報社
・〇 石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1) 石橋 湛山/岩波書店
『ケネー 「経済表」 戸田正雄 増井健一訳』 現在に至る、その「産業連関表分析」対応、説明解説について、慶應義塾大学 教授 増井健一著「交通経済学」東洋経済新報社 P.28 第1章 交通 4 経済における交通 (Ⅱ) ・・・(1) 産業における地域と交通 表1. 商品の購入価格に占める流通費の割合 資料: 文献 U-5、92ページ,1965年 産業連関表を基礎にして国鉄がとりまとめたもの。表2.地域間産業連関表、表3..わが国地域別貨物OD表(1970年度)における各内容文献の説明文 及び、私の恩師 慶應義塾大学 教授 西川俊作 著「計量経済学のすすめ」 毎日新聞社を各参考にされると、今後において、それが理解されやすいのではないかと、私は、個人的に考えている。
.〇 交通經濟總論 (1940年)
増井 幸雄 / 丸善
.〇 交通経済学―交通経済論 (1973年)
増井 健一 / 東洋経済新報社
.〇 計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ)
西川 俊作 / 毎日新聞社