紀子さま 佳子さま 広島 平和公園で原爆の犠牲者を慰霊

 

 

紀子さま 佳子さま 広島 平和公園で原爆の犠牲者を慰霊 | NHK | 皇室 配信より

 

広島市を訪れている秋篠宮妃の紀子さまと、次女の佳子さまは、11日、平和公園で原爆の犠牲者を慰霊されました。

 

10日から広島市を訪れている紀子さまと佳子さまは、11日午前、平和公園を訪ねられました。

そして、34万9246人の原爆死没者名簿が納められた原爆慰霊碑の前で一礼し、白い花を供えて犠牲者の霊を慰められました。

 

このあと、おふたりは高齢の被爆者のための養護施設、「舟入むつみ園」を訪ねられました。

この施設は1970年に広島で初めて開園した原爆養護ホームで、79歳から101歳までの59人が暮らしています。

おふたりは入居者と同じテーブルを囲んで懇談し、入居者が折り紙で作ったハトを手に取って羽を動かすなどして、交流を深められました。

紀子さまは「ここのところ暑いですが、ご体調はいかがですか」などと、一人一人に、いたわりのことばをかけられていました。

佳子さまは「皆様にお会いしたいと思っていたので、うれしいです」などと話しかけ、趣味の話題などについて、笑顔でことばを交わされていました。

先月、秋篠宮ご夫妻が広島を訪問した際、この施設を訪ねる予定でしたが、入居者が新型コロナウイルスに感染したため中止になっていて、宮内庁によりますと、ご夫妻は入居者の体調を心配するとともに、訪問できなかったことを残念に思われていたということです。

おふたりと懇談した空民子さん(83)は「折り紙のハトの羽を動かすと、楽しそうに笑ってくださいました。お土産に持ち帰ってくださって、とてもうれしかったです」と話していました。

 

 

私のコメント :  令和7年8月11日、広島市を訪れている秋篠宮妃の紀子さまと、次女の佳子さまは、令和7年8月11日、平和公園で原爆の犠牲者を慰霊されました。

 

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千田保育園はどのような経緯で誕生しましたか。

千田保育園はどのような経緯で誕生しましたか。 | 千田保育園

配信より

 

千田保育園はどのような経緯で誕生しましたか。

 

千田保育園は、舟入高校の前身である広島市立第一高等女学校の同窓生の、社会のためにお役に立ちたいとの願いから誕生しました。戦後間もなく昭和28年(1953年)に市女同窓生の寄付によって設立されました。

 

経緯をくわしくみる

 

千田保育園の沿革

1953-09-22 千田保育園開園
1961-04-29 事業奨励の思召をもって賞状並びに金一封天皇陛下よりご下賜
1967-04-01 社会福祉法人二葉会認可
(広島市長より1,488.53㎡の土地を無償貸与される)
1969-04-29 事業奨励の思召をもって賞状並びに金一封天皇陛下よりご下賜
1971-03-13 園舎増改築落成式
1973-11-03 松本玉代園長 勲六等瑞宝賞受賞
1978-05-03 乳児室落成式
1980-11-30 ままごとの家完成
1982-04-01 創立30周年記念園歌制定(作詞:山本良雄、作曲:川本ワキ子)
1988-03-03 故 川上とよ子理事が『先生と園児の像』 を寄贈
1989-01-30 今掘友市先生胸像移転、総合遊具設置
1990-04-02 広島市長より福祉功労賞受賞
1991-10-01 遊具UFO設置、動く遊具ラクダを赤い羽根募金より寄贈
1993-04-01 夜間保育サービス事業発足(広島市第1号)
1993-10-25 給食室改修工事(市補助事業)
1994-04-01 夜間保育サービス事業 長時間保育実施
1994-08-18 匿名の卒園児、保護者、その他の寄付金により図書貸し出しを始める
1995-04-01 時間延長型保育サービス事業 長時間保育実施(定員25名)
2000-05-18 保育の定員を増やすことと環境整備のため、隣接する市公舎跡地を拡張する
2002-03-18 新園舎にて保育開始
2004-03-07 創立50周年記念誌発刊
2008-01-13 自動体外式除細動器(AED)保護者会より寄付
2009-08-08 園是額 『 揺籃を動かす手が 世界を動かす 』 除幕式
2010-07-24 「母性健康管理措置及び母性保護に関する規定」の制定
「非常勤職員(パートタイマー)母性健康管理及び母性保護に関する規定」の制定
2010-09-25 全国ボランティアフェスティバルひろしま(4、5歳児98人参加)
2012-09-27 園庭遊具設置(ハッピーライド・ムシ)
2014-03-15 創立60周年記念誌発刊
2014-01-11 園庭整備等開始(創立60周年記念事業)
2018-09-22 創立65周年

 

千田保育園の組織構成

理事会
・理事長    1名
・副理事長   1名
・常務理事   1名
・理事     3名

・顧問     2名
・監事     3名

 

評議員会
・評議員    11名

 

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広島の声

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守屋ミサさん 救護被爆(廿日市市大野)
被爆時24歳 / 茨城県つくば市8552

 

 

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。 私は1945年5月、日赤新潟支部救護班として、広島県大野村(現廿日市市)にある広島陸軍 病院大野分院に派遣されました。8月1日、広島市内4ヶ所にあった陸軍の病院の患者の多く が郊外の陸軍病院に疎開し、大野分院も多くの患者を受け入れ、大野陸軍病院として独立し ました。8月6日10時過ぎから原爆患者が押し寄せ、たちまち1杯になり、翌日近くの 大野国民学校に分室を開設し、約1500名を収容しました。

 

 病院の惨状については、他の収容 所と同じですので省略します。大野陸軍病院の特徴は、9月3日から京都大学医学部、理学 部の原爆研究所になり、9月3日から9日にかけて、原爆死者7体の病理解剖が行なわれ たことです。その結果、当時既に原爆被害者は外傷のみでなく、内臓も侵され、また当座の 病変だけでなく執拗な後遺症が続くであろうことが指摘されています。

 

 なお、その後9月17日の枕崎台風による土石流によって病院は壊滅状態になり、職員、 患者、付添い、京都大学研究者計157名の犠牲者を出しました。

 

この事件は、朝日新聞 が原爆についてアメリカを批判した、ということでGHQのプレスコードによって9月19 ・20日新聞の発行が止められ、ながい間一般に知られませんでした。私がこれらの全貌を 知ったのは、20年以上もたってから柳田邦男著「空白の天気図」の本によるものです。


 これらについて私は7年前に「従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ」にくわしく書きまし たので同封しました。なお、この本につきましては、発行した1998年9月17日の朝日 新聞夕刊で紹介されました。

 

 私は来る5月に国連で開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議応援のためにニューヨー クへ行くべく、今準備中です。


 核兵器だけでなく、地球上に永遠に戦争をなくすために1歩 でも1筆でも行動したいと思っています。それにはまず日本の平和憲法を守って行きた い!


(2005年)

 

以下の内容については、省略をしています。