のと鉄道で語り部列車 「生かされている」から伝えたいこと

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のと鉄道で語り部列車 「生かされている」から伝えたいこと(毎日新聞) - Yahoo!ニュース 配信より

 

毎日新聞

語り部列車で能登半島地震の被害状況を説明する主任列車客室乗務員の宮下左文さん=のと鉄道の列車内で2024年12月10日午後0時14分、飯塚りりん撮影

 

「左手の急勾配の坂をご覧ください

 

。あの白いガードレールに沿って、もう本当に逃げることで(頭が)いっぱいでした」。

 

2両編成のディーゼル列車に揺られながら、

 

宮下左文(さふみ)さん(67)は乗客に向き合い、「あの日の記憶」を語り始めた。

 

能登半島地震を伝える「語り部列車」。

 

恐怖と寒さに震えた体験を思い出すことには、つらさも伴う。

 

それでも、「自分の言葉で語らないと思いは伝わらない」と言葉に力を込める。

 

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駅に停車中に地震発生  2024年の元日、宮下さんはのと鉄道の観光列車に案内役として乗車していた。

 

石川県北部の七尾―穴水を結ぶ第三セクターで、沿線には七尾湾や里山の風景が広がる。  

 

マグニチュード7・6の地震が起きたのは、能登中島駅(同県七尾市)に停車中だった。

 

8の字を描くような揺れが列車を襲う。宮下さんは倒れそうになったが、

 

「案内役が倒れたら乗客に恐怖を与えてしまう」と必死に近くの手すりを握りしめた。

 

そして、混乱する乗客に「安心してください、指示があるまで待っていてください」とマイクで呼び掛け続けた。  

 

揺れが収まり、乗員乗客計48人は列車から脱出したが、すぐに大津波警報が発令された。宮下さんらは、乗客を高台に誘導した。坂の途中で振り返ると、町に向かって横一線に白波が押し寄せてくる様子が見えた。  

 

「お客さんを無事に帰さないといけない」。その一心で、坂を上ってくる車を止め、高齢の乗客を乗せてもらうなどして、全員を避難させた。  

 

高台には廃校になった高校があり、体育館で一夜を明かした。翌日には地元のお店の人が駆け付け、

 

おにぎりとスープを食べられた。乗客の送迎の手配を済ませると、

 

会社から迎えが来たため、乗客よりも先にその場を離れた。

 

「ありがとう、気を付けてね」と手を振って見送る乗客の姿に安堵(あんど)した。  

 

 

自宅は全壊、車中泊などする  同県輪島市内の自宅に自家用車で向かったが、崩れた道路には土砂が流入していた。

 

回り道をしながら自宅に着くと、木造2階建ての家は全壊していた。周辺には物が散乱し、足の踏み場もなかった。

 

近くに避難していた同居の兄と、帰省中だった長男家族の計5人が無事だったことが唯一の救いだった。

 

宮下さんは車中泊などで過ごした。  

 

列車内や帰宅途中で味わった恐怖は大きく、

 

「携帯電話のパスワードや、長年話してきた案内役の言葉を忘れてしまうほどのショックだった」。

 

のと鉄道の運行も停止となった。

 

添乗員は待機となり、「このままでは復興に向かわないのではないか」と不安が募った。  

 

 

「自分に何が語れるのか」  

 

のと鉄道は計27カ所でレールの損傷や土砂崩落の被害を受けたが、4月に全線で運行を再開した。

 

5月、宮下さんらは社長から、震災の状況を添乗員が伝える「語り部列車」の運行を提案された。  

 

「自分に何が語れるのか」。語り部を務める3人で、

 

被害が大きかった同県珠洲(すず)市や、東日本大震災について学ぶ三陸鉄道(岩手県)の震災学習列車に乗車した。  

 

宮下さんは、学習列車の語り部の言葉にはっとさせられた。

 

「つらいけれど、自分の言葉で伝えないと伝わらない」。

 

宮下さんにも被災したからこそ感じる防災の備えの大切さや、伝えたい教訓があった。

 

「多くの命が失われた中で私たちは生かされている」。

 

元日から自身に起きたことをノート1冊分書きため、列車運行の日を待った。  

 

語り部列車の運行が始まった24年9月。車内に立ち、15人ほどの乗客を前にして感極まった。

 

案内役を始めて10年。体に染みついた列車の揺れは懐かしく、ノートに書いて覚えた言葉よりも先に、

 

自然と震災時の光景を思い出して言葉にしていた。  

 

「揺られながら話してきたここが、自分の居場所だ」  

 

宮下さんらは約40分間の車内で被災体験を話し、車窓から見える道路の復旧状況や、

 

家の瓦屋根がブルーシートで覆われている風景などを説明している。  

 

 

「震災を忘れてほしくない」  

 

被災から間もなく1年。仮設住宅で暮らす宮下さんの自宅は公費解体された。

 

今も、当時の話をする際に涙ぐんだり、能登中島駅が近づくと鼓動が高まったりすることがある。

 

「立ち直ってなんていない」。それでも、被災体験を伝えた乗客からの「がんばってね」

 

「観光できるようになったら来るね」という言葉に少しずつ励まされている。  

 

車窓から見える景色も、語る力をくれる。

 

能登鹿島駅のホームを包むように咲く満開の桜、七尾湾に姿を現すイルカたち、田園に渡来するコハクチョウ――。

 

観光列車時代の説明が自然とよみがえり、列車では復興に向かう町並みだけでなく、四季折々の能登の姿も伝えている。  

 

「震災を忘れてほしくない。壊れてしまった能登にも良いところはあるので、語り続けたい」。

 

震災の爪痕を残しながらも復旧へ進む能登の姿を車窓から見つめていく。

 

【飯塚りりん】

 

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