“日本最古の学校” 足利学校で伝統の古書の虫干し 栃木
10月07日 15時23分

https://www3.nhk.or.jp/lnews/utsunomiya/20231007/1090016095.html

日本最古の学校として知られる栃木県足利市の足利学校で、虫食いやカビなどから貴重な書物を守るための虫干しの作業が行われています。

足利学校には、平安時代以降の書物およそ1万8000冊が所蔵され、一部は国宝や国の重要文化財にも指定されています。

こうした書物を虫食いやカビから守るため、毎年湿度が下がるこの時期に「曝書」と呼ばれる虫干しの作業が行われています。

7日は、市の重要文化財に指定されている中国の後漢の歴史を記した『後漢書』など56冊を所蔵庫から風通しのよい部屋に運び畳の上に並べました。

職員は、マスクや手袋をして書物を1ページずつ開いて風にさらすことで湿気をとる作業をしながら、とじ糸がほつれていないかや新たな傷みがないかどうかを確認していました。

虫干しの作業は、来月上旬まで晴れて湿度が低い日に行われる予定で、一般の人も見学できるということです。

史跡足利学校事務所の塩島啓嗣所長は「昔から受け継いできた大切な書物を後世に残すために丁寧に行っています。せひお越しいただき、足利学校の秋を感じていただきたい」と話していました。

 

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足利尊氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』配信より

 

 

凡例

足利 尊氏

絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵)

時代 鎌倉時代末期 - 室町時代南北朝時代)初期
生誕 嘉元3年7月27日1305年8月18日[注釈 1]
死没 延文3年4月30日1358年6月7日
享年54(満52歳没)
改名 又太郎(幼名)→高氏→尊氏
戒名 等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿
墓所 京都府京都市北区萬年山等持院
神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺
官位 従五位上鎮守府将軍従四位下左兵衛督従三位武蔵守正三位参議征東将軍従二位権大納言征夷大将軍正二位従一位、贈左大臣、贈太政大臣
幕府 鎌倉幕府建武の新政室町幕府初代征夷大将軍(在任:1338年 - 1358年
主君 守邦親王北条高時)→守邦親王北条守時)→後醍醐天皇光明天皇崇光天皇後村上天皇[注釈 2]後光厳天皇
氏族 河内源氏義国足利氏足利将軍家
父母 父:足利貞氏、母:上杉清子
兄弟 高義尊氏直義、源淋(田摩御坊)[注釈 3]
正室:北条守時の妹・赤橋登子
側室加古基氏の娘、越前局ほか
竹若丸直冬義詮基氏鶴王
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足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代南北朝時代)前期の日本の武将室町幕府初代征夷大将軍[2](在職:1338年 - 1358年)。鎌倉幕府御家人足利貞氏の次男。足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。

概要[編集]

河内源氏義国足利氏本宗家の8代目棟梁足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗北条高時偏諱を受け氏「たかうじ」(源高氏)と名乗っていた。

 

佐々木道誉も同時期に同様にして名乗った足利高氏(源高氏)[3][4]と本姓(源氏)名前ともに同姓同名。

 

共に鎌倉幕府を打倒した新田義貞は同族である。

 

正慶2年(1333年)に後醍醐天皇伯耆国船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。

 

幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を氏(たかうじ)に改める。

 

鎌倉時代の足利宗家当主の通字は「氏」であったため、室町幕府の将軍15人の中で唯一「義」の字が諱に使われていない。

 

後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、持明院統に近く冷遇されていた貴族西園寺公宗北条高時の弟泰家の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。

 

これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。

 

箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦および打出・豊島河原の戦いで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、光厳上皇が尊氏に対し新田義貞追討の院宣を発給し、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧。

 

光明天皇践祚を支援し、光明天皇より征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。

 

一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、吉野に脱出し南朝を創始することになった。

 

幕府を開いてのち、尊氏は是円真恵兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『建武式目』を発布。 

 

征夷大将軍として幕府の軍事を取り仕切り守護を纏めた。これを支えた保守派の直義に対して、尊氏の執事高師直は執事施行状など尊氏の意を受け先進的な体制を取りいれていた。 

 

後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天竜寺を建立し、全国の戦没者を弔うため66の安国寺利生塔を設立させた。

 

その後、師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。

 

師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、晩年には政治にも手腕を発揮して統治の安定に努めた。

 

勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。

 

以下、省略

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行田市 三方領知替200年を記念した企画展/埼玉県
10/8(日) 18:19 テレ玉 配信より

https://news.yahoo.co.jp/articles/e03ab00b96691dbd8ddc4f2a11f0cbed586ebe34

テレ玉

今からちょうど200年前の1823年=文政6年に「三方領知替」が行われた3市が所蔵する、武具や書状などを展示する企画展が、行田市の郷土博物館で開かれています。

 「三方領知替」とは、江戸時代に幕府の命令で三つの大名の領地を替えることで、文政6年の三方領知替では、現在の行田市の忍の藩主が福島県白河市の白河藩に、白河の藩主が三重県桑名市の桑名藩に、桑名の藩主が忍藩に領地替えを行いました。

 今回の企画展は、三方領知替から200年と、3市の友好都市締結25周年を記念して企画されたもので、3市の博物館などが所蔵する三つの藩の城絵図や代々伝わる武具などの資料が展示されています。

 阿部忠秋覚書は、忍藩の藩主だった阿部忠秋が幕府への忠誠や藩主としての心得などを自筆した家訓のようなもので、白河に移ったことで、現在は白河市の小峰城歴史館が所蔵しています。

 企画展「武門の遺産ー徳川家を支えた忍・桑名・白河ー」は10月15日まで行田市郷土博物館で開かれます。

最終更新:10/8(日) 18:19 テレ玉