天皇誕生日の一般参賀 今年も中止 3年連続 コロナ感染拡大防ぐため 陛下即位後一度も行われず

1/21(金) 0:00 FNNプライムオンライン 配信より

2020年1月2日に行われた新年一般参賀の様子

2月23日の天皇誕生日について、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、一般参賀を行わないことが決まった。

天皇誕生日の一般参賀の見送りは3年連続。

宮内庁によると、感染の急拡大が続く中、一般参賀では高齢者を含む多くの人たちが皇居を訪れ、密集する状況が避けられないことから、2月23日の天皇誕生日は、午後の記帳を含め、一般参賀を行わないという。

新型コロナの影響で、去年と一昨年の天皇誕生日も一般参賀は見送られ、陛下の即位後、天皇誕生日の一般参賀は一度も行われていない。

最終更新:1/21(金) 0:00 FNNプライムオンライン
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皇籍復帰の男系男子の子供に皇位継承権? 議事録公開
1/20(木) 20:50 産経新聞 配信より

皇位継承、政府における検討結果を各党への報告に臨む細田博之衆院議長(中央右)、山東昭子参院議長(同左)ら=18日午後、衆議院議長公邸(矢島康弘撮影)

衆参両院は20日、政府が安定的な皇位継承策について検討した結果を各党の代表者らに報告した18日の全体会議の議事録を公表した。

会議では、養子縁組で皇籍復帰した旧宮家の男系男子の子が皇位継承資格を持つと政府が認めたように受け取れるやり取りがあった。

会議は非公開で行われた。

議事録によると、立憲民主党の代表として出席した野田佳彦元首相が「養子になられた方がご結婚されたときに配偶者は皇室に入るのか、お子さまが生まれたら男系男子として皇位継承資格が生ずるのか」などと質問。

内閣官房皇室典範改正準備室の大西証史室長が「そういうことでございます」と応じた。

政府有識者会議の報告書では、皇族数の確保が「喫緊の課題」と指摘し、具体策として①女性皇族が婚姻後も皇室に残る②旧宮家の男系男子が養子縁組などで皇籍復帰する-の2案を示した。

養子縁組などで皇籍復帰した男系男子は「皇位継承資格を持たない」と明記したが、結婚した配偶者やその間に生まれた子の扱いには触れていなかった。

今回、議事録で、政府側の説明が男系男子の子が皇位継承資格を持つとの印象を与える表現になったことに関し、磯崎仁彦官房副長官は20日の記者会見で、「具体的な制度内容は、実際に制度が計られていく際に考えるべき事柄だ」と述べるにとどめた。

ただ「男性皇族と婚姻した配偶者および、その夫婦から生まれた子は皇族となるものである」という現行の皇室典範の規定も重ねて説明した。(千田恒弥)

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最終更新:1/20(木) 21:54 産経新聞
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高校ご進学直前、悠仁さまの“帝王教育”に動きづらい深刻な理由〈今後“皇籍を離脱したい”と願う皇族が現れたら…〉

1/20(木) 6:12 配信 文春オンライン 配信より

悠仁さま15歳は即位前にいかなる教育を受けるべきか〈“名門校・筑波大学附属高校へのご進学問題”より重要な視点とは〉 から続く

【写真】家族写真で、お一人だけ“微妙な距離”を置かれた眞子さま(当時)

「文藝春秋」2月号より元宮内庁書陵部編修課長の米田雄介氏による「皇室の危機を考える『天皇を鍛えた男たち』」を全文公開します。

(全2回の2回目/ 前編 から続く)

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「わがまま気ままのくせをつけないこと」

ブータン王国から帰国された悠仁さま コピーライトJMPA

 近代に入ると、帝王教育にも時代に応じた変化が生じます。日本が近代国家として確立するには、天皇となる人がいかにあるべきかと考えられるようになるのです。  

礎を築いたのは明治天皇です。

大正天皇が幼少の頃から病気がちで十分な教育ができなかった反省を、孫である迪宮(みちのみや)裕仁親王、つまり後の昭和天皇に生かしたのでしょう。

生後70日目から、信頼を置いていた枢密顧問官で海軍大将(死後昇進)の川村純義に養育を任せます。  

明治天皇らの意を受け、川村家では次のような養育方針を定めます。

(1)心身の健康を第一にすること

(2)天性を曲げぬこと

(3)ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと

(4)難事に耐える習慣をつけること

(5)わがまま気ままのくせをつけないこと  

この方針に基づき、川村家は純義亡き後も昭和天皇満4歳まで、家族ぐるみで厳しく躾けたのです。  

私は幼い昭和天皇が砂浜で裸になって相撲を取らされたという話を聞き、半ば気の毒なような気持ちを抱いたことがあります。

天皇になる人にそこまで無遠慮でよかったのだろうか、と。

しかし川村は、元首たる天皇にはとにかく壮健な体を作ることこそが不可欠だ、という確たる信念を持っていたのでしょう。

中等科に進学しなかった昭和天皇

 この信念の延長上にいたのが、やはり明治天皇の信任が篤く、学習院院長を命じられた陸軍大将・乃木希典でした。

学習院初等科に進んだ昭和天皇は、乃木の教えを受け、雨の日でも徒歩で通学し、鉛筆や消しゴムは持てなくなるまで使い、継ぎのあたった服を着ました。  

冬には、乃木から「今日のように寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますか」と尋ねられ、「ええ運動します」と答えたという逸話も残っています。  

まさに質実剛健の教えです。  

昭和天皇は初等科を卒業後、中等科には進学していません。乃木が発案し、明治天皇が裁可して設置された東宮御学問所で学ぶことになったからです。

総裁は、海軍大将の東郷平八郎。東大や学習院などの教授や一流の知識人らを結集し、この国の天皇としてあるべき人物をつくりあげるための特別な教育機関です。

皇太子時代の昭和天皇はこの御学問所で、先ほど挙げた永積さんら5人のご学友とともに、7年間学びました。

倫理をはじめ、歴史、数学、化学、地理、博物、仏語、国文、漢文、美術史、法学、経済学、馬術、軍事講話……。

未来の天皇として、幅広い教養を身に着けたのです。  

ちなみに昭和天皇の3人の弟宮(後の秩父宮、高松宮、三笠宮)は、学習院中等科を出て、それぞれ陸軍や海軍の学校へ進んでいます。皇太子とは、受ける教育に明確な違いがありました。

皇太子と弟宮に差をつけるのはなぜ当たり前なのか

 今上天皇と秋篠宮殿下の場合もそうですが、「なぜ弟宮に皇太子と同じ教育を受けさせなかったのか」と言う人がいます。しかし、差をつけるのは歴史上、当たり前のことです。  

なぜなら、弟宮本人ではないにせよ、弟宮を取り囲む人たちがクーデターを起こす可能性があるからです。

「天皇が受けるべき教育を、我々が支えている宮様も同じように受けている。それなのになぜ天皇になれないのか」などと誰かが言いだしたら、大変なことではないですか。  

そんなことがあってはならないという考えが、古からの帝王教育と皇族教育の違いに表れているのです。  

また、明治天皇の下で制定された大日本帝国憲法では、天皇は国の元首であり、軍の最高責任者です。明治天皇としては、昭和天皇の弟宮たちは天皇を支える立場として陸海軍で役割を果たすべきだ、というご意向だったのでしょう。

足立タカからヴァイニングへ

 このように昭和天皇は豊かな教育を受けました。だからこそ第2次世界大戦後、皇太子明仁親王、つまり今の上皇の教育にもいろんな配慮をなさったのだと拝察します。  

たとえば昭和天皇は1946年、皇太子の教師として米国人文学者のヴァイニング夫人を招聘しました。

ご自身の発案として、年齢が50歳くらいまでの米国人婦人で、キリスト教徒でも狂信的でない人物を、と望まれたのです。  

このことについて、マッカーサーと米国に対する昭和天皇のアピールだったという説もありましたが、私はそうではなく、純粋に教育的意義を考えてのことだと思います。  

昭和天皇は御学問所を終えられた直後、半年かけてヨーロッパ5カ国を歴訪されています。

その経験から、これからの天皇には国際的な素地がないと困る、と判断されたのではないでしょうか。

女性に限定した理由ははっきりしませんが、振り返ってみると昭和天皇には、幼い頃から薫陶を受けた侍女がいました。

足立タカ、後に鈴木貫太郎夫人になる女性です。

女子師範学校出身のタカが、幼き日の昭和天皇に植物の名前を教えたり、昆虫の標本作りや整理を助けたりしたというのは有名な話です。

「皇太子の人生に何がしかの女性の影響がなければ」

 昭和天皇は後年、「本当に私の母親と同じように親しくしたのであります」とタカを回想していますが、『皇居の植物』などの本をお出しになった生物学者としての原点がタカの教育にあると思うのです。  

一方、皇太子明仁親王は3歳でご家族から離され、男性の侍従に囲まれて育っていました。

ヴァイニング夫人は後に、昭和天皇の意向が「皇太子の人生に何がしかの女性の影響がなければ」ということであったろうと語っています。  
ヴァイニング夫人は、学習院での英語の授業と、皇太子の英語の個人授業を担当しました。

授業内容は夫人に一任され、英語を媒介に、民主主義の理念や原則などが語られました。

期間は4年に及びました。  

皇太子教育の全権委任者だった小泉信三は、個人授業に初めて同席した際、ヴァイニング夫人が皇太子に対して、どんな教科書を使っているか小泉に見せるよう指示したことをこう評しています。

「(皇太子が)お使いの役をされたのは初めてだったに違いありませんな。本当に、多くの良いことがあの時から始まったのですよ」  

このエピソードから思い出す、個人的な体験があります。

上皇さまが醤油差しを手渡された

 1995年のことです。私が仕事の関係で皇居へ昼前に伺ったところ、上皇から「あなたも食べていきなさい」と言われて、上皇上皇后両陛下と昼食をいただいたことがありました。

印象に残っているのは、上皇の前にあった醤油差しを、上皇后が「取ってください」とおっしゃったことです。

私的な食事とはいえ、給仕の人が後ろに控えているのに、上皇がさっと手渡された。

日常的にそうなさっているのだろうなと感じる、非常にアットホームな雰囲気でした。こうしたことも、思えばヴァイニング夫人の教育が原点だったのでしょう。  

私は、昭和天皇とはほとんど接点がなかったのですが、宮内庁の課長だった時は年1回、昼食に招かれました。

7~8人ほどの会食で、それぞれに話題を提供しながら食事をするのですが、昭和天皇は雑談をしていても威厳があったものです。

私のイメージとしては、昭和天皇は、帝国主義時代の天皇です。

対して今の上皇は、非常にざっくばらんとしていて、民主主義時代の天皇です。

これはやはり、受けてきた教育の賜物だろうなと思います。それは煎じ詰めれば、帝王教育で学んだ憲法の違いなのではないか。憲法がそれぞれの天皇の骨格を作っているのです。  

昭和天皇の骨格は、戦後になってもやはり大日本帝国憲法だなと感じる面がありました。たとえば1982年、三笠宮寬仁親王が皇籍離脱を申し出た時のことです。

「皇籍を離脱したい」と願う皇族が現れた時に

 大正時代半ばまで、皇族は宮家単位で「家費」を支給されていました。戦後、昭和天皇の弟宮である三笠宮崇仁親王は、皇族がそれぞれ独立した存在として扱われる時代になったとして「各々が責任ある行動を取らないといけない」と話されました。

それに対し、ご長男の寬仁殿下は、独立した存在として扱われるのならいっそのこと皇室自体から独立したいと願ったのです。  

最終的には、昭和天皇が皇籍離脱はだめだと言ったことで、一件落着しました。

これが私には、昭和天皇が帝国憲法時代の皇族への監督権を行使したように感じられたものです。実際には監督権は失われているのですが、変わらぬ威厳によって効力を発揮したように思えたのです。  

今の上皇の骨格は、日本国憲法です。上皇は当時最高の法学者・田中耕太郎などから憲法を学び、それが血肉となっています。

象徴天皇制の「象徴」という言葉を説明しなさいと言われても、われわれ国民には抽象的すぎて難しいものです。しかし、上皇は自分ごととして「象徴とはどうあるべきか」と日々向き合ってこられたはずです。  

しかし「皇籍を離脱したい」と願う皇族が現れた時には、今の憲法に照らすと、自主性を尊重することにならざるを得ません。これが、秋篠宮家の長女・眞子さんの結婚をめぐる対応の難しさでもありました。そして今後も、同じようなことが起こる可能性がないとは言えません。

帝王教育を妨げるのは誰か

 今上天皇の帝王教育については、私にはよくわかりません。ただ、気がかりなことがあります。  上皇上皇后両陛下は1976年の記者会見で、浩宮徳仁親王、つまり今上天皇に「教育顧問のような人をつけるつもりはあるか」と問われてそれぞれこう答えているのです。

「私の場合、小泉(信三)先生、安倍(能成・学習院)院長、坪井(忠二)博士(東京大学教授)と3人いました。(略)私はその影響を非常に受けました」(上皇)

「小泉先生のような立派な方がいらっしゃればと、浩宮が中学生の頃から望んでいましたが、人選が難しく、まだ実現していません」(上皇后)  
これは無視できない問題です。  

教育者に誰を選ぼうとしても、そこにはイデオロギーが入ってきます。一見中庸のような人でも、誰だってどこかしらに偏りは出るもの。それに小泉のように、過去の発言や立場を変えることもありえます。  

しかし、宮内庁という役所の立場では、その人にイデオロギーがちょっとでも見えると、なかなかオーケーを出しません。  

上皇の頃は戦後の混乱期で、そうした議論がありませんでした。知識人への国民の信頼も厚かった。だから決めやすかったのですが、時代が下り、昭和50年代になると仮に小泉のような候補者がいたとしても、宮内庁がすんなり通さなくなっただろうと感じます。  
ましてこの令和の時代は、今上天皇の頃以上の困難が想像できます。SNSなどを通して、議論が百出するからです。それでも前へ進めるためには、国民の側にイデオロギーにとらわれすぎない理解が必要です。

このままでは悠仁さまへの帝王教育に公的に動きづらい

 もっとも、悠仁さまへの教育でいえば、何より先に考えなければならない問題が他にあります。  前述したように、「帝王教育」とそれ以外の「皇族教育」は、歴史的に差がつけられてきました。しかしそれは、皇位継承者がはっきりしているからこそ可能なことです。  安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議が報告書を提出したとはいえ、先行き不透明な状況にあります。これでは宮内庁は、いくら現時点での皇位継承順が2位とはいえ、悠仁さまへの帝王教育に公的に動きづらい。つまり、誰が次の天皇になるのかを早く確定させることが、先決すべき問題なのです。  

とはいえ、ここまで見てきたように、次代の天皇は教育によってつくられるもの。秋篠宮殿下自身はある程度自由な教育を受けられるお立場でしたが、宮家としては悠仁さまの将来に待ち受けうる課題として、帝王教育の準備を進めておいていただければと願うところです。

「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2022年2月号

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最終更新:1/20(木) 11:57 文春オンライン
 
私のコメント :  令和4年1月21日、元宮内庁書陵部編修課長の米田雄介氏による「皇室の危機を考える『天皇を鍛えた男たち』」を全文公開を読ませていただいて、「大正天皇が幼少の頃から病気がちで十分な教育ができなかった反省・・」と、米田雄介氏が、記述をなされていますが、今迄、学術 関係、慶應義塾大学 御用学者 皆様から、ご清明であられた大正天皇の事柄 業績に関し、私が、その拝聴をさせていただいています学事 内容と、異なっていますので その箇所については、ここに、明記し、記載をいたします。