ヒンディー映画評や、ニューデリーでの留学生活について、ユニークかつインド愛にあふれる発信を続けている「これでインディア」。今日はこのサイトで紹介されているヒンディー映画、「サルカール」を、カトマンズ市内ジャイ・ネパール映画館で観てきた。
 
映画のあらすじ、解説についてはこちら(クリック)。アルカカットさん、いつも感謝しています。カトマンズの在留邦人の間でも、まず「これでインディア」をチェックしてから観に行こう!ヒンディー映画 ~が定着しています。
 
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さてこの映画。ヒンディー映画界の鬼才、ラムゴパル・ヴァルマの監督・制作作品。私たちの世代には懐かしい、フランシス・フォード・コッポラ監督の名作、「ゴッドファーザー」に対する、インド版オマージュである。
 
映画評についてはアルカカットさんの記事に脱帽なのだが、ミキ流ウォッチは、スクリーンの【上手(かみて)」「下手(しもて)】に注視した、ヴァルマ監督の映像表現を中心に語りたい。
 
Sarkar劇中、庶民の味方であるマフィアの頭領サルカールと、次男のシャンカール、その一家。そして、敵対する一味が、時に時勢の優劣シーソーゲームを繰り返す。
 
グループ内部の力関係、そして敵対する同士の力関係においても、その時「パワー」を握る優勢な登場人物は、必ず「上手」、観客席から観て向かって右側のスクリーンに登場する。視線は下手側に向かう。
 
劣勢、または序列が下の登場人物は、スクリーン向かって左側(下手)から上手側に視線を送るわけである。
 
これは、人間の心理的配置理解なのだが、スクリーン上手側に登場する方が、何となく強そうに見えてしまう。また、ギャング映画には「個人と個人の敵対する視線が火花を散らす」表現がつきものであるが、この映画はアップを撮るとき、味方同士は顔の同じ側、敵対する同士は別の側として、編集作業を通じて観客の心理に訴えるセオリーがきちんと押さえられていた。
 
映画中盤、サルカール側が劣勢に立たされるシークエンス。ムンバイの街を俯瞰しつつ、フレームが横移動する「パーン」ショット。普通「こっちからこっちだよな」と感じる逆方向にフレームが動く。観客に苛立ちや心地悪さを感じさせる演出が、わざと為されていた。
 
映画制作では当たり前の配慮かも知れないが、その配慮が大変に効いていた。またラスト近く、汚職政治家とシャンカールが対決するシーンでは、シャンカールを演じるアビシェク・バッチャンの顔をより格好良く見せるため、敢えてこのセオリーを無視したショットが、大変効果的に挿入されていた。
 
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さて、本家「ゴッドファーザー」は、シリーズ映画化された。本作品サルカールも、次作は父親の若い時代を描く。その後のシャンカールを中心とした抗争を描く。または、シャンカールが「殺した」と思われている長男ヴィシュヌの復習劇.......と、続編を作るネタがいっぱいなのだ!
 
父を裏切り暗殺しようとしたヴィシュヌ。父の命の危険間一髪で救いに入るシャンカール。そして次のシーン。ベットに横たわる父を中心に、落ち込んだ家族がひとつ部屋に集まっている。そこに、憔悴しきったシャンカールが入ってくる。ベッドの父の横に腰を下ろしたシャンカールがひとこと。
 
「兄貴の始末は、俺がやってきた.......(一筋の涙が、頬を伝う)」
 
天井を見上げて言葉ない父親、サルカール。そして、大きく目を見開いてふるえる長男の嫁。
 
ここでシャンカールが、兄を殺すシーン自体は映画に出てこない。血を分けた兄弟である弟が、「もう二度とムンバイに顔を見せるな」と兄を追放し、家族や組に対しては「殺した」と伝えた。そんな伏線として、次作で利用できるだろう。また、長男ヴィシュヌ役を怪演したケーケー・メノンを、本作品だけの登場とするのは惜しすぎる。
 
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私がこの作品の「続編」を確信したのは、ラストシーン。民衆に敬愛される父親から「カメラがすーっと移動して」、今や若きサルカールと呼ばれるようになった息子のシャンカール。
 
このカメラワークの、上手と下手の使い分けである。まだまだ父親サルカール、このまま老いてばかりではないゾ。ふふふっ。
 
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この作品では、ヒンディー映画界の、いや、インド世界の生きる「世界遺産」と呼ぶにふさわしいアミターブ・バッチャンが、マーロンブランドを越える存在感を示している。
 
実の息子、アビシェーク・バッチャンがシャンカール役。実の息子として競演したわけだが、バッチャンJr.が大変な素晴らしい。特に、父親が暗殺されようとしていることを知り、バッチャンJr.が拘置所の狭い階段を駆け上がるシーン。父バッチャンのかつての形容詞、「怒れる若者」のカリスマが、息子バッチャンに降臨した瞬間であった。
 
ヒンディー映画界の潮流は、松竹の歌舞伎のごとく、親から息子、娘、孫に継承されていくんだなぁ~ 感動で背筋が震えた。
 
コッポラ映画は、抗争シーンであっても最小の効果音で静かな世界の中、哀愁を帯びたニーノ・ロータの旋律が響く。しかしサルカール。ハードボイルドに不必要なダンスシーンは一切ないが、どうしようもなくヒンディー映画である。感情表現を表す「ダダダン」「ガガガガン」という効果音が、ドルビーサラウンドで響きまくり。せっかくのバッチャン親子鬼気迫る演技に、水を差している感じもした。しかし後半になると、過剰な効果音さえ気にならなくなるストーリー運びの緊迫である。
 
映画音楽についてだが、これまたどうしようもなくインドを覚悟しよう。ヒンドゥー宗教音楽から題材を取った「ゴーヴィンダ、ゴーヴィンダ、ゴーヴィンダ~」という曲が、サルカールのニーノ・ロータである。宗教界と闇の世界のつながりを暗示しており、大変勇気ある表現であった。
 
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映画の冒頭、
 
【秩序(システム)】が機能を停止したとき、【力(パワー)】が世界を支配する。
 
という一文が、スクリーンに登場する。
 
そして、サルカールという題名。庶民の味方であるマフィアの頭領に対する「敬称」として映画で使われている。
 
ネパール語で「サルカール」とは、「神の化身である国王陛下や王族」に対する尊称である。または、「政府」という意味である。「御上(おかみ)」という侍ことばが、ぴったりする。
 
現在のネパールで観た映画「サルカール」は、私にとっては、私の生きている世界のストーリーである。血の臭いが、映画館の漆黒の中に座っている、私の脳裏に渦巻いていた。
 
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映画「サルカール」公式サイト(英語ですが、観るだけでも楽しめます♪)
 
この映画、ジャイ・ネパール映画館では今週木曜日まで。カトマンズ在住の皆さま、急ぎ観ましょう。金曜からはアミール・カーン髭でむんむんの歴史大作、「ザ・ライジング」と、注目作が続きます。