今日のネパール、「ラクシャ・バンダン」の祝日。ネパールでは、年長者から手首に紐を巻いてもらい、祝福を受ける。
 
バウン、チェトリ(ブラーマン、クシャトリア)などの男性は、上半身(身体に直接かけるため、服の上からは見えない)にたすきがけする長い紐「ジャナイ」を、新しいものに取り替える日でもある。また、9種類の豆を煮たスープ「クウォティ」を食べ、暑さと農繁期の重労働で疲れた身体に滋養を与える......って、我が家のような「農作業から遊離した」人間も、スパイスの効いたクウォティを、「美味い、ウマい!」と食べてしまう訳である。
 
インドでは今日、姉妹が兄弟の手首に「ラキ」という綺麗な飾り付きの紐を巻き付け、幸福を祈る。ネパールでは、同じ目的の宗教儀礼が今日でなく、秋のティハール大祭最終日に行われる。ネパールとインド。同じサンスクリット文化の上にあるのだが、似ているようで、違う風習があり、それでもやはり、深いところで繋がっていたりする。
 
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さて我が家。朝一番で亭主から右手首に紐を巻いてもらう。何故なら、私にとって「夫は神であり」、私に祝福を与えるに最もふさわしい人間と、伝統的に考えられているからである。亭主は我が家の「国家主席」と、後の記述につなげるために規定したい。
 
クマイ(西の)バウンである我が家では、男女ともに紐を巻くのは「右手首」。しかし結婚前に下宿していたタクリ(現王家と同じ民族)民族の家では、男性は「右手首」、女性は「左手首」に紐を巻いていたりと、ネパール国内でも文化・風習は複雑である。
 
その後、国家主席たる亭主は、「お寺に行って、新しいジャナイに替えてくるわ。その後お母さんちに寄って、家に帰ってくるから。その後出勤しよう」と。その時分かったのだが、今日、亭主が社長の我が社は、スタッフは休みとなっているらしい。
 
国家主席殿が外出してしばらくすると、寝室で主席の携帯電話が鳴っている。敵はうっかり(もしかするとわざと)、携帯を忘れて外出をしたのだ。まあ、いいか。すぐ帰ってくるし.......と思っていたら、何時間経っても帰ってこない。
 
我が家の主席殿は、大変気まぐれでいらっしゃる。そのままずるずると夕方までお帰りにならず、結局私も「祝日で休み」となる。今日は事務所から日本の実家に、とある書類をFAXすると父に約束していたのだが。お父さん、悪いのはあなたの婿です。ごめんなさい。
 
我が亭主.....いや、楽主満(ラクシュマン)国家主席に代表されるネパール男は、自分より目下(と認識される)人間の行動を規制することに対して、無頓着なのである。事前に連絡をしたり、待たせている人間に状況を知らせたり、そういう「文化」はない。しかも携帯を持たずに外出している主席殿に、居場所を探してこちらから連絡するのは、癪にさわる。
 
一方、走資派、米国帝国主義、階級の敵といくら非難されても、江青女史は.......じゃなかった、私は、民主・自由・平等主義の戦後教育を受けて育った人間である。こういう場合、主席に面と向かって「アンタ、何考えてんのよ!」などと政治論争を挑むのは適切でない。
 
江青女史には......もとい、私には、ブログという闘争手段があるのでね。うひひひ。「百花斉放・百家争鳴」なのである。そして今日は手元に、大変興味深い本がある。読書・学習!である。
 
と、今日のブログ、何だか変な単語が使われている......と、お気づきのアナタ。そーなんですよ。その読んでいる本てえのが、
 
李志綏 著 「毛沢東の私生活」 の日本語版。20年以上、毛沢東の主治医兼側近を務めた、李博士がアメリカに亡命後執筆した本である。現代ネパールを理解する上でも、大変に役立つ書籍である。
 
いや、毛沢東について書かれた書籍を読んで、ネパールの毛沢東主義武装組織を理解できるわけではない。毛沢東を語るとき忘れてはならないのは、彼は「紅い皇帝」として、共産中国に君臨したという事実である。
 
そう。この本は、この国において、「陛下」を理解するために役立つのだ。
 
権力闘争、政治闘争のまっただ中において、権力が過剰に集中する場所や個人の疑心暗鬼。心身の過労。そのストレスを、毛主席はどのように発散させたか?全てがネパールと一致しないけれど、地方視察のくだりなど、読んで思わず「にやっ」とした。権力の中枢で疲れ果てた国家主席は、無邪気な大歓迎にあふれた地方視察を好む。
 
また、皇帝たる国家主席は、「過ちをおかさない」と考えられるが、判断の基準となる「情報が間違っている」事はある。つまり、最高権力者は「自ら過ちを犯すことはないが、騙されることはある」と考えられていたこと。
 
この時、政治野心のない「清廉潔白の士」が皇帝を諫めることは出来るが、政治闘争の中にいる人間の進言は、皇帝の信頼を得ることが出来ないということ。そして、最高権力者の回りにいる人間に「清廉潔白の士」なんてえのは、普通絶対に「いない」こと。
 
え゛っ?私は、中国文化のことを語っているだけ......なんだけれど、どっかの国の今の状況に当てはめると、人間って普遍だと思う。
 
そしてこのヒエラルキーの下にある、家庭にいる小皇帝・小国家主席を理解するためにも、なかなか応用が利く(かもしれない?)名著なのである。
 
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今日はまたインド人ジャーナリスト氏から電話で、第一次インド独立闘争(セポイの反乱)について、様々な教示を受けた。先日観たヒンディー映画 Mangal Pandey のおさらいなのだが、この映画の持つ、現代ネパールにおける「意味」や「過激さ」があったから、是非是非押さえておきたかったのだ。
 
また劇中、Mangal の最期の言葉となる「ハッラー・ボール!(攻撃せよ)」の、歴史・言語的解釈について、大変納得できるレクチャーを受けた。
 
いやはや、家にいても何だか、いろいろ楽しいね。
 
明日は、外出するぞ!出来なきゃ、「ハッラー・ボール!」武装蜂起する。