1400年前に書かれた、「天国の梯子」(The Ladder of Divine Ascent)を翻訳し、紹介します。
『天国の梯子(はしご)』は、東方正教会およびローマ・カトリック教会の修道生活における重要な修行論(禁欲論)の書です。
紀元600年頃、聖カタリナ修道院にてヨハネス・クリマコスによって執筆されました。これは、ライトゥ修道院長ヨハネスの依頼によるものでした。
絶大な人気を博し、著者の名を教会内に知らしめたこの『梯子(Scala)』は、隠修士(独居修道士)や共住修道士に向けて書かれており、宗教的な完成(完徳)の最高段階に到達するための手段を論じています。忠実なキリスト教徒にとっての「神聖な模範」であるキリストの30年の生涯を記念して、30のパート、すなわち「段(ステップ)」に分けられています。本書はあらゆる徳の姿を提示し、主に修道生活から着想を得た多くのたとえ話や歴史的な記述を含み、教訓をいかに実践的に適用するかを示しています。
今回翻訳した文章は、キリスト教の修道院での修行、特に「忍耐」と「謙虚さ」についての逸話です。
アバキロスについて
脆(もろ)い土の器のような人間の中に宿る、神の知恵について聞き、驚嘆しましょう。
私がその修道院にいた頃、修練者(見習い修道士)たちの信仰と忍耐強さに驚かされました。彼らは長老からの叱責や侮辱、時には「出て行け」という追放の言葉さえも、不屈の精神で耐え忍んでいたのです。それも長老からだけでなく、長老よりずっと身分の低い者たちからの仕打ちにさえ耐えていました。
私は自分の霊的な学びのために、その修道院に15年住んでいるアバキロスという名の兄弟に尋ねてみました。
というのも、ほとんど全員が彼につらく当たり、給仕係たちがほぼ毎日、彼を食堂から追い出しているのを私は見ていたからです。(彼は生まれつき、少しばかりおしゃべりだったため、よく叱られていたのです。)
私は彼にこう言いました。
「アバキロス兄弟、なぜあなたは毎日食堂から追い出され、夕食もとらずに寝ることが多いのですか?」
彼は答えました。
「父よ(ヨハネ・筆者)、信じてください。先輩方は、私が本物の修道士であるかどうかを試しておられるのです。彼らは本気で私を憎んでそうしているわけではありません。
長老や皆の意図を知っているので、私は落ち込むことなくこれに耐えています。もう15年間、そうしてきました。
なぜなら、修道院に入った時、彼ら自身が私にこう言ったからです。『俗世を捨てた者は、30年間試されるものだ』と。
そしてそれは正しいことです、ヨハネ神父。火で試されなければ、金は純粋なものにならないのですから。」
この英雄的なアバキュロスは、私が修道院に入ってから2年間そこに住み、その後、
主のもとへ召されました。
死の直前、彼は神父たちにこう言いました。「私は主に、そしてあなたに感謝しています。
あなたが私の救いのために私を試し続けたおかげで、
私は17年間、悪魔の誘惑を受けることなく生きてきました。」
正しい羊飼い(修道院長)は彼に報いを与え、「告解師」という称号を与え、
地元の聖徒たちと共に埋葬するよう命じました。
※
・「土の器 (earthen vessels)」: 聖書由来の表現で、壊れやすく弱い人間(の肉体)を指します。その弱い人間に神の知恵が宿るという対比です。
・金は精錬されない (gold is not purified): 苦難や試練を経ることで、不純物が取り除かれ、信仰や人間性が純粋なものになるという比喩です。
副助祭マケドニウスについて
もし私が、かの地の執事長であったマケドニウスの功績と報いについて沈黙の墓に葬り去ってしまうなら、完璧を追い求める熱心な人々に対して全く不当なことをすることになるでしょう。
主に献身していたこの人物は、聖主顕祭(テオファニア)の祝日を目前に控えたある時(実際にはその二日前)、個人的な用件でアレクサンドリアへ行く許可を牧者(修道院長)に求めました。彼は、近づく祭典の準備のために、できるだけ早く街から戻ると約束しました。しかし、善を嫌う悪魔がこの副助祭を妨げたため、院長が定めた指定の時間までに修道院へ戻ることができませんでした。
彼が一日遅れて戻ったとき、牧者は彼を助祭職から解任し、最も身分の低い修練者の地位に落としました。
しかし、この「忍耐の良き助祭」であり「堪え忍ぶ副助祭」であった彼は、まるで自分ではなく他人が罰せられたかのように穏やかに父(院長)の決定を受け入れました。
彼がその状態で40日間過ごした後、賢明な牧者は彼を元の職位に復帰させました。
ところが、一日も経たないうちに、副助祭は「私は街で許されない罪を犯しました」と言って、以前の修行と不名誉な状態のままにしてほしいと牧者に懇願したのです。
聖なる院長は、マケドニウスが嘘をついていること、そして彼がただ謙虚さのために罰を求めていることを知っていましたが、この修道者の善き願いを聞き入れました。
その後、そこにはなんと素晴らしい光景があったことでしょう!白髪の尊敬される長老が、修練者として日々を過ごし、心から全員に自分のために祈ってくれるよう頼んでいたのです。「なぜなら」と彼は言いました。「私は不従順という不品徳に陥ったからです」。
しかし、この偉大なるマケドニウスは、卑小な私にだけ、なぜ自分が自らこれほどまでに屈辱的な人生の歩みを選んだのかを打ち明けてくれました。彼は私にこう断言しました。「今ほど、あらゆる心の葛藤から解放され、神聖な光の甘美さを自分の中に感じたことはありません。『転ばない(罪を犯さない)』ことは天使の領分であり、ある人々が言うには天使にとって転ぶことは不可能です。一方、『転んでも、そのたびに再び立ち上がる』のが人間の領分です。しかし、『一度転んだら二度と立ち上がらない』のは、悪魔、ただ悪魔だけの領分なのです」。
※
経緯: 副助祭マケドニウスは、用事で外出中に戻りが一日遅れたため、修道院長によって地位を剥奪され、最低ランクの修練者に降格させられた。
態度: 彼はこの罰を驚くほど穏やかに受け入れた。40日後に院長が元の職位に戻そうとしたが、彼は「罪を犯した」と嘘をついてまで、謙虚さを保つために低い地位に留まることを志願した。
教訓: 彼は自ら進んで屈辱的な立場に身を置くことで、かつてない心の安らぎと神の光を感じたという。
名言: 彼は「一度も転ばないのは天使、転んでも立ち上がるのが人間、転んだまま立ち上がらないのが悪魔である」と語り、失敗を認め、悔い改めて立ち上がることの重要性を説いた。
おわりに
「この世で下であればあるほど、天国では上である」と教会は教えます。
現実の社会を見渡せば、上を目指そうと躍起になるほど、どこかで悪に手を染めざるを得ない歪みが生じることもあります。この世で無理に天国を築こうと執着することは、かえって地獄のような苦しみを生むのかもしれません。
むしろ、自分の意志を節制し、魂を律し、自らをあえて「下へ、下へ」と置くこと。その謙虚な姿勢の中にこそ、本当の満たしがあるのだと気づかされます。
イエス・キリスト自身が、その手本を示してくれました。貧しい家に生まれ、30年もの間、目立たぬ生活を送り、人から蔑まれ、最後には十字架にかけられる。最もひどい罪人として扱われたからこそ、今、天の最も高いところにおられるのです。
私自身、かつては「人から良く思われたい」「大切に扱われたい」と願うたびに、乾きと苦痛を感じていました。しかし、この『天国の梯子』を翻訳する中で、「自分は最も愚かで、最も必要とされない存在でいいのだ」と思えるようになったとき、不思議と心が軽くなっていくのを感じました。
以前翻訳した「7年間平伏して過ごした修道士」の話が思い出されます。 私自身も子育てに励む日々の中で、幸せなはずなのに、ふと鬱々としてしまう瞬間があります。「旅行に行きたい」「美味しいものを食べたい」「自由になりたい」……。そんな欲望がどこからともなく湧き上がってきます。
ですが、その欲を力ずくで抑えつける必要はないのだと思います。 そのすべてを神様に捧げ、「自分にはそれを受け取る価値などないのだ」と認めてしまう。むしろその渇きを、天へと向かうための「期待」へと変えていくのです。
もちろん、このようなことを書いたり話したりするほど、悪魔は邪魔をしようと誘惑を仕掛けてきます。「お前は全然ダメじゃないか」と囁き、天国への希望を簡単に崩そうとします。
けれど、それさえも私をさらに謙虚にするための試練なのだと、翻訳を通じて感じています。「私は天国にふさわしい、罪のない人間だ」と思い込むことこそが、何万倍も危険な思想だからです。
傲慢に陥ってしまわないよう、読者の皆様もどうか私のために祈っていただければ幸いです。私もまた、この記事が皆さまの魂の糧となるよう祈っています。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。