こんにちは、Tracy です。(⌒▽⌒)

 

今日は私がなぜ英語好きになったのかを考えてみました。

 

私は、一昔前の日本の典型のような地方の田舎の大家族に生まれました。

 

父は五人兄弟の長男で、私が生まれたときには、まだ結婚していない弟2人と

 

妹1人(私の叔父や叔母にあたりますが)が未だ同居していました。

 

家業を継いだ父と母、そして祖父母、私より2歳年下の妹の9人家族でした。

 

その後、5~8年のうちに叔父や叔母も進学や就職、結婚で家を出て、最終的には

 

6人家族に落ち着きました。

 

 大家族の中で、母はお嫁さんという立場で舅姑に気を遣いながら、毎日一生懸命

 

仕事と家事をこなしていました。私は、皆にかわいがられて成長してきましたが、

 

半面で母の苦労や大家族の中での自分の立ち位置を小さい頃から考えていました。

 

家では、序列が確立しており、一番は祖父。祖父は家長です。

 

次が父、父は次の家長になるからです。

 

その次は祖母、そして、その次は父の弟のうち、年上の方。

 

父に何かあれば、次の家長です。

 

そして、その次が父の下の弟です。

 

更にその次に、父の妹。家長の娘ですから。

 

そして、母、お嫁さんの立場はよそから来た者なので、家族の次です。

 

そして、私。子どもだからです。でも、やがては順位が上がります。

 

私の下が妹。

 

最後は、犬のマリでした。

 

猫のシロは、気まぐれなので序列には参加しません( ̄_ ̄ i)。

(ネット上で見つけたマリに似た犬です)

 

私は、物心ついたときから、自分の家族の中にあるこのような序列に気づき、

 

その序列なりの言動をしないと、祖母や母からピシャリとやられました(→o←)ゞ。

 

そして、学校に行くようになり、ここにも同じような序列があることに気がつきました。

 

校長先生、教頭先生、学年主任、担任、副担任・・・・etc., etc,.

 

自分の属する社会の中で、自分で選んだ訳でもないのに序列が決まっていて、

 

序列を乱すような言動は慎まなくてはならないという不文の掟があるように感じました(・_・;)。

 

 具体的には、年上の人には敬語を使って話す、相手の意図を考えながら提案する、

 

できるだけ調和的な結論になるように自分も考える、というような習慣を重んじることが

 

できるのが大人だと思っていました。

 

 端的に言えば、周囲の様子を気にせず、自分の考えを考えたとおりに発言するのは、非常

 

識だと考える習慣が身についていました。

 

 

 中学生くらいまでは、これも成長するということなのかと思っていました。

 

そして、できるだけ周囲の期待に沿うように行動したり、発言したりするように意識していまし

 

た。時に、なぜ自分の発言が『子どもが口を出すことではない』の一言で

 

糾弾されるのか理解できないときもありましたが、子どもというのはそういう扱いを受ける

 

理不尽な存在なのかと諦めたこともあります。

 

 でも、中学生になって英語を勉強し始めて英語や英語が話されるアメリカやイギリスでは

 

違う価値観が存在しているらしいということに気づいてきました。

 

 

 英語は、結論(Yes/No)から入ります。

 

日本語のように、周囲の顔色を伺いながら、最も親和性の高い結論に最後に至る必要は

 

ないのだと気づきました。むしろ、それは許されないのです。

 

 それが、私が英語を好きになった最初の理由でした。

 

英語の世界では、自分の考えをストレートに表現して良いのだと感じたとき、

 

私は心がとても自由になりました。

 

そこから、英語の世界への探索が始まりました。

 

 アメリカの政治家で第三代大統領トマス・ジェファーソン(1743~1826)が

 

こんな言葉を残しています。

 

 The God who gave us life gave us

liberty too.

 

  Error of opinion may be tolerated

where reason is left free to combat it.

 

 われわれに生命を与えられた神は、自由をも与えられた。

 

 意見を戦わして良い自由が残されているところでは、意見の誤りは許される。

 

 may be tolerated  許されよう

 reason ここでは「理性」(無冠詞なところからも分かりますが、「理由」ではありません。)

  be left free to~ 自由に~してよいうように残されている

 

 ジェファーソンはアメリカの独立宣言起草者の一人で、生来の自由主義者と呼ばれたことが

 

頷ける発言です。現代社会では当たり前とされている表現の自由も当たり前ではなかった時

 

代があったのかもしれません。

 

 私自身も自分の中の表現の自由を確立するため、長い道程を経てきました。

 

私にとってのその道のりは、英語の習得への道のりで、それは今も続いています。

 

長いブログを最後までお読みいただきありがとうございますヾ(@^▽^@)ノ。