[3370]男性目線でファム・ファタルとして描かれたマノンが抱いた本音とは | TRAZOM@さるさる横丁

[3370]男性目線でファム・ファタルとして描かれたマノンが抱いた本音とは

【今日の一冊】
『無邪気と悪魔は紙一重』
〔青柳いづみこ;著〕
[BOOK]白水社◎ISBN-4-560-04945-9

 

 

7:30起床。36.3℃
新型コロナウイルスも落ち着いてきて感染者数がニュースで報じられているが、都心の限られた場所がほとんどではないか。あれだけ人口がいたら、そら30人や40人の感染者数が出ても何ら不思議ではない。あたかも東京が大流行しているかのような錯覚を与えてしもうて、報道の仕方もいかんのではないか。昨日は夜寒かったせいか風邪の兆候が出て、急遽USB湯たんぽを温めて枕にして寝た。朝はすっかり治っていたので効果てきめん。みなさんもお気をつけください。

 

○WHILLのLINEスタンプ
ボクの愛車WHILL社から「オリジナルスタンプができました!」とのメールが昨日届いた。Twitterでもツイートされたので、上に画像を貼っておきました。小鳥ちゃんのかわいいスタンプ! 中には「最高速度で 向かいます」ちゅう過激なスタンプもあって、いや面白い。あわせてWHILL社のフォローもよろしく。車いすだけでなく、近未来的な暮らしに関するTweetが得られるので貴重な情報源です。

 

○青柳いづみこのマノン
プレヴォ『マノン・レスコー』の〈解説〉で訳者である野崎歓は青柳いづみこのマノン論を紹介しておられる(p331~)。そこで図書館で借りて少し読んでみたが、ファム・ファタルより以前にオム・ファタルが存在していたと青柳はいう。つまり「運命の男」オム・ファタルが先にあって、時代の要請でファム・ファタルが生まれたというのだ。それらの詳細は本の引用になってしまうので省略するが、青柳はファム・ファタルがずっと描かれていたわけではないと指摘するのだ。『マノン・レスコー』の『椿姫』も一人称で書かれているが、どちらも書き手は男であって女性(マノンとマルグリット)の言い分は中心ではない。青柳は2人の女性が確かにファム・ファタル、すなわち魔性の女であったかもしれないが、男(デ・グリュとアルマン)もストーカーのように女性につきまとい、女性の運命をぐちゃぐちゃにしたのではないかと主張する。デ・グリュの独占欲はすさまじいもの。迷惑しているのはマノンの方ではなかったか。

 

○ジェンダー・フリーの見方
あまりに偏ったファム・ファタルに対して、青柳いづみこのように女性の主権の主張する流れが出てきた。男からのストーカーやDVに対する反発としても現出してきていて、それを疎ましく感じたり、あるいはイデオロギーと結びつくと嫌悪する人もいる。ジェンダーはいかにあるべきかはさておき、青柳はこの著で「ファム・ファタルは男だった?」という副題をつけて論じている。そこでは大岡昇平の『姦通の記号学』にはじまり、『大ラルース百科』、そして映画になった『マノン・レスコー』も主演がオーブリとドヌーブの2点が取り上げられるなど著書全体が縦横無尽の本や映像で埋め尽くされている。訳者である野崎歓は、ファムにもオムにも属さない中間の立場で『マノン・レスコー』を解読しておられる。つまりマノンにとってデ・グリュは迷惑な男だったかもしれないが、破滅の道に突き進んだ罪は2人にあるのではないか。片方だけに肩入れしてはこの小説を読み誤ってしまう。そんなことが〈解説〉に書かれてある。ただし青柳いづみこの指摘は考えさせられるものがあるので、再度『マノン・レスコー』をマノンの立場から読み返してみようと思う。

 

○障害者解放運動は今どこに
フェミニズム運動を発端にジェンダー・フリーの思想が生まれたが、フェミニストがあからさまに女性解放をうたったのとは違い、ジェンダー・フリーは性差の無化を訴えているようにボクには思える。それで言えば、かつて障害者解放運動があった。いや今でもある。差別させられている障害者。自分たちも一個の人格ある人間として認めよ!が運動の核心だった。障害者もずいぶん住みやすい世の中になったが、それでも差別や偏見はなくならない。SNSで少しでも物言えば、プロ市民がと非難される。では解放の意味合いはなくなったのか。そうではない、解放がどこからどこへ向けての「解放」なのかが見えにくくなったのである。そして、障害者だけが解放されていないのではない。障害があろうがなかろうが、「解放」されていない度合いは同じではないのか。障害者が「解放」されたとして、健常者と同じように満員電車で揺られ会社では窮屈な思いをさせられストレスで覆われる日々を望んでいるのか。そうではないだろう。『マノン・レスコー』においてデ・グリュはマノンに運命を掻き乱され、一方マノンは「こんなはずじゃなかった」と歎く。しかしお互いがお互いから「解放」されたとして幸福な人生が送れただろうか。不幸なところから「解放」されたからといって幸福が待っているのでは決してない。それを『マノン・レスコー』ははからずも教唆してくれている。