穴原と熱海の有名旅館に宿泊する機会があった。<穴原のY旅館>約300人規模の会合が可能のようだ。阿武隈水系の摺上川に接する位置にある。向かいの片倉山も旅館の窓から近すぎるので自然のパノラマ眺望というわけにはいかない。紅葉もイマイチだ(写真右)。ただ片倉山の断崖の冬の雪化粧は楽しめそうだ。<熱海のI旅館>(写真左・中)萩姫伝説は面白い。郡山・本宮を流れる五百川がある。その名の由来だが京の都から数えて500番目であるというが本当だろうか。その時代誰が数えたのであろうか。頼朝の奥州平定後安積郡の領主となった伊東氏は出身地の伊豆を懐かしみ、この地に温泉があることが故郷に似ているので「熱海」と名づけられた。そしてそれより前の今から650年ほど前の南北朝時代に、万里小路重房という公卿の一人娘だった萩姫は京中で指折りの美女といわれながら原因不明の病を患っていたが、萩姫は「都から東北へ五百番目の川のほとりに霊泉あり」との不動明王のお告げを聞いて旅に出ると、やがて五百川の上流に湯煙の立つ温泉(それが後の熱海温泉)を見つけ、湯治を始めると病が全快したというのだ。以来、美人の湯・磐梯熱海温泉と呼ばれている。ユラックス熱海には年数回行っているので女房も美人になるかもね?

講演者の話であるが「新潟に来て懐かしいものはやはり日本海だ」という。新潟市に入ると一番に西海岸公園、関屋浜あたりに出て日本海を見た。空は曇っていて海岸は風が強く海は荒く日本海は暗くて怖い感じだ。新潟で美しいものは「沈む夕日」であると。日本海夕日ラインと名付けられている名所スポットが数か所あるらしいが、講演の会場であった朱鷺メッセ31F展望室からの夕日が人気があり日本夜景遺産に選ばれたという。Befcoばかうけ展望台」などど変な名前がついていた。「Beika Frontier Company(米菓の最先端を行く企業)」の略だそうなせんべい「ばかうけ」「星たべよ」など食べたことはない。朱鷺メッセ展望室は地上約125m、日本海側随一の高さで新潟市街地はもちろん、日本海、佐渡島、五頭連峰などの景色を一望できる360度の大パノラマが広がっていた。展望台から西方面には佐渡島が見えた。未だ訪れたことがないので来年には是非行ってみたい。信濃川が日本海に注いでいて新潟西港となり佐渡汽船がある。ここから佐渡へ行くのであろう。三角屋根のNEXT21も見えた。南方面は萬代橋と柳都大橋、遠くには弥彦山。東方面は五頭連邦が見えた。今日は運良く秋晴れで越後平野の美しさが際立っていた。美しさといえば「古町芸妓」だろうか。江戸時代から200年の歴史を刻んで今もな活気を帯びているという。新潟の楽しみは奥が深いようだ。こちらの楽しみは次回ということになろう。

子規は学生時代(明治20年頃)盛んになっていたベースボールに夢中になった。子規は当初「弄球」(球をもてあそぶ)と訳語したがその後自らの雅号に「野球」という文字を使っている。「野の球」すなわち「ノ・ボール」と読ませた。(彼の幼名は「升」のぼる)であったことは面白い。その子規が野球用語を日本語に訳した言葉、例えばピッチャー(投者)、キャッチャー(攫者)、ファースト(第一斬基人)、ライト(場右)、バッター(打者)、ランナー(走者)、フォアボール(四球)などいまでも通用しているものも多い(松山市教育委員会編・伝記正岡子規より)。また子規は旅を愛していた。明治26年芭蕉への思いを胸に彼が辿った奥州を旅している。鉄道を使ってであるが、もちろん白河、須賀川、郡山、福島に立ち寄っていることを見ると子規への親近感が強く湧いた。晩年の病気との戦いのなか創作意欲はさらに燃え、俳句の研究に対する没頭は凄まじく万人には真似できない。また子規の本を読んでいると小生が時に愛飲する山口県の銘酒「獺祭」の名が出てくる。獺祭書屋主人」と称した雅号はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性から、本をあたりに並べ散らかす様を号したものと言われる。「獺祭書屋俳話」で俳句革新の声を上げたのが26才であったことを思うと自分を振り返って「いと恥ずかしき」思いがする。そう言えば夏目漱石の「漱石」は100余りある子規の雅号の一つを譲り受けたものであることは有名である。子規の人生にドップリ浸かって子規記念館を後にした。