さて、「神道」は宗教か?という大きなテーマのことを述べたいと思います。

前回のページのトップにも記しましたが

結論から申しますと 私は「神道」は宗教ではない!と強く申したいです。

「神道」は目には見えない大自然の営みの不思議な偉大な力への「畏敬」と「感謝」の想いであり、それは「共有」の想いであって特別な意識で動いているものではないのです。

農耕社会であった日本では皆で一致協力して田植えをし、秋にはまた皆で稲刈りをする。

そして収穫のお祝いには神々にお礼を兼ねて「祭り」を行って皆で労り合って明日への励みとしていったのです。そして長い冬が明ければ春を迎えた喜びをまた皆で分かち合って「祭り」をして神々にお礼と感謝の誠を伝えるのです。このように誰かを何かを崇拝するという「宗教」という感覚ではなくて、いつもの当たり前の日常の成すべき慣習のような思いと行いが 日本人の倫理観として根底に流れているものと言って良いと思います。

お祭りには「神輿」を担いで皆でその範囲を練り歩きますが、その「神輿」の中に祀られるのは、その地の「氏神さま」のご神体と言われるものですがそれは各神社によって異なっていて中には「石」や「木片」「紙片」も有りますが通常は「鏡」がそれになります。

「鏡」は太陽を表すので「光輝く物」としてそこに祀られますが、自分自身が写るのでそれを見て己の反省すべき点を自ら顧みて暮らしなさい、という示唆を与えてもいます。

また、「鏡=かがみ」は「か」と「み」の間=「かみ」の間に「が=我」が入りますね、 つまり「が=我」を除けば「神」の想いに近づけるのだから「利他」の精神で日々を過ごしていきなさい!とも諭しているのがこの「鏡」なのです。

通常はご祭神が本殿の祭壇に祀られますが、それは単純に「ご祭神」の霊だけであって

飾られているのは鏡なのです。全てではありませんが、ほとんどの神社はこの様になっています。お祀りされているのは「神の魂」です。目には見えないのです。この神輿が氏神さまの範囲地域全てを巡りまわるようにして氏子のそれぞれの平安な暮らしをお守りくださいますことに皆でお礼と感謝の意を伝えるのです。このようにして「祭り」はとても大きな神事なのです。日本各地でそれはそれは見事な独自性豊かな祭りが挙行されています。

「神道」は数千年もの長い歴史の中で伝わってきたことなので言葉では言い表しようがありません。「神道」は宗教ではなくごく自然に育まれてきたSomething Great への「畏敬」と「感謝」の想いであります。

「宗教」という言葉ですが、これは和語ではないですね。漢字での造語です。Religionという英語を和訳した折に当初付けられたものですから昔には無い言葉です。それまでは「神道」は当たり前の極々自然な生き様のことで唯々神さまに「お礼」をして清く正しく潔く生きることを人の道としていて、そこに仏教やキリスト教などの宗旨、更に加えて特に鎌倉時代以降に夫々の家庭に先祖さまからの流れで浄土真宗・日蓮宗・真言宗・禅宗・・・など諸々の宗派が加わってきました。これらの「宗派」というのが所謂一般的に言われている「宗教」なのです。

宗教には崇めるべき宗祖・教祖が存在し、経典が在ります。でも「神道」にはそれらは在りません。神道には天照大御神はじめ多くの神様が居るではないか? という疑問が投げかけられますが経典が無いのです。ご祭神ではあってもその神さまを祈るような経典はありません。ならば「祝詞」があるではないか?という質問も聞こえますが「祝詞」は基本的には神話の長い物語を音読しているのです。私たちは多くの過ちを起こしがちだが清く正しく生きることで清めて頂いて平安な世の中が続きますようにという祈願の文なのです。「払え給え、清め給え」と繰り返して悪しき想念などを川上から大海に流す如くに清めて頂き、潔く生きていきます。という決意に近い文なのです。特別な人(神仏)を拝むものではないです。

 私の兄が故郷飛騨で神職を成していたのでよく話してくれたことですが「地鎮祭」という「土地の開発」や「新築施行時」「工事開始時」などで、その土地の神様(八百万の神々が存在するから至る所に神が居る)に穢れをお祓いをしてお礼を伝えて工事の無事をどうかよろしくお願いします。というお祈りをするのですが、その際には日本酒と塩が必須で、その当該地での東西南北の各方面にそれらを注いでいくのですが、どうしても清めが終えられない部分では何かを感じるのでそこには幾度も繰り返してお神酒を注ぐ!ようにしている。そうするとしっかりと応えてもらえる。と言っておりました。

この「穢れ」・「清める」・「払う」という言葉をしっかりと外国語に訳せると良いなぁと

常々思っています。これが叶えば 日本のことがもっと正しく世界の皆さんに解してもらえるだろうなぁと思います。

また「祝詞」は遠い昔から有ったものです。今から900年ほど前に漢字を用いて文になっただけのことでそれ以前からずうっと口伝されていたものなのです。ですから「漢字」で表すと誤って伝わる恐れが有ります。本来は言霊を重視する「大和言葉」なのです。ですから

一音一音に深い意味が有るのですが、そこは私如きに叶う範疇ではありませんのでお許しください。もっともっと深い意味が存在することは事実です。音読!音ですからただゆっくりと音声にして詠むだけでそれで十分なのです。座禅で言うところの「只管打座」そのことだと思います。ただ座る!!! 

よく以心伝心とか背中で伝えるとか言われていますが、私たちは日常 恥ずかしくない行いを淡々と重ねていかないと成りませんね。

それが「高い倫理観を持つ国民性」を育んでいくのですから。

朝起きて床につくまで正直に真っ当に生きて、自然を愛し他人や世間に対して愚痴や悪口を言うことなく正々堂々明るく元気に生きていく!そのものが「神道」です。ここに宗教などの要素は一切ありはしません。昔からの日本人の生き方そのものです。

誰に教わったというものでもなく昔から日本人に流れていた当たり前の生き方なのです。

ですから 日本人は世界からは「無宗教」で変だな?と言われても、少しも誤ってはいません。勿論、個々に仏教徒やキリスト教という宗旨が有るので、それへの関わりの有無は一切

問題の無いことです。如何なる宗旨でも構いません。それが世のため人のため世界の平和に結ぶことであれば、です。私たち人類が起こしてはならないのは空しい「宗教戦争」です。

これが最も愚かで最も脅威な存在ですね・・・。