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亀井静香金融相の間違った政策

民主党政権が今国会に提出する

「郵政改革法案」の骨格を亀井静香郵政改革相、

原口一博総務相が正式に発表しました。


ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の全株式を

市場に売却する「完全民営化」路線を中止して

政府出資する役所が株式の3分の1以上を保有します。


法案の成立ついで、ゆうちょ銀行の預け入れ限度額

1千万円を2千万円まで、かんぽ生命の保障限度額

1千万円も2500万円まで引き上げるつもりです。


郵政改革法案は、小泉政権の郵政民営化路線を無視し

政府株主の政治家、役人の関与を大幅に強めることになります。

私は小泉、竹中支持者だけに残念です。


これで毎年国民の預かった預金、保険料から

増発し続ける国債が安心して買い増しできます。

まだ法案が通過していないので亀井大臣の言うとおりには

ならないと思いますが・・

益々大きな政府になって破綻に近づいていく事でしょう。


都市銀行も減収減益でリスクのある企業に融資するよりも

安心して持っていられる国債を買い増しするのでしょう。

いずれ1000兆円を超えると思いますが、

はたしてデフォルトしないか心配がでてきます。


私は会社での取引銀行をふくめて一銭も積立や定期預金を

していないので心配はありません。

一般国民は、なにがしかの定期預金をしているので心配です。


大幅な増税もしくはハイパーインフレ以外方法はないので

ギリシャ国並みの国債を含めた破綻は他人事ではありません。

その時は一般国民の被害は避けられないでしょう。


ブログにも載せていますが香港株にも多少の被害がでると

思いますが日本国債より安全だと確信しています。


私より一番被害に遭わない人達は

現金、預金を持っていない貧乏人とホームレスでしょう。

彼らは何があっても安心していままでの

生活が維持できる環境の人達です。










中小企業に対する都市銀行の冷酷な態度

当社は40年間ちかく◎菱◎◎U◎◎銀行と

取引をしていました。それも都市銀行での借入金は

一行しかありません。


昨年暮れに貸付係の平行員が社債を発行していた

数億円を来年から5年~6年月賦で返済してくれと

いきなり言ってきました。今までは三年おきに書換えで

済ましていましたが、今回の態度はいつもと違っていました。

毎月の返済は元金、利息を含め数百万円になります。


減収減益で困っている時に元利を返せと言われたら

どんなに優秀な企業でも資金繰りに困ってしまいます。


リーマンショック以後、減収減益に落ち込んで日本中

の企業は頭を抱え込んでいます。都心のデパートさえ

20%落ち込んでいる現状は地下食品テナントも

同じ状態です。下丸子地区の中小企業(製造業)の

売上げ落ち込みは想像を超えた減収です。


先生の本にも銀行にだけは「本音で銀行に苦しい時の

経営相談をしてはだめですよ」と書かれていましたが

当社だけは、面倒をみてくれると思っていました。


まがりなりに40年間赤字を出していない当社でも

一旦売上げが大幅に落ち込んだ企業には

銀行の逃げ足はとても速くビックリしました。


2年後にも発行している◎億円の社債の書換えが

きますが同じ態度で返済要求をしてくるのでしょう。

銀行は単なる金貸しです。


その前に会社の投資有価証券で持っている

香港株、上海、深圳B株を売り飛ばし返済要求前に

返して、スッキリしたいと考えています。


経営革新事業資金を借りていた政府系日本政策銀行

(中小企業金融公庫)に話したら即、借り換え可能と

返事がきて改めて存在価値が再認識できました。


銀行は困っている時、融資してくれると思っていましたが

69歳になって実績、貢献には関係なく冷たいものだと

あらためてさとりました。


中小企業から回収した資金は国が潰れない限り

安全と思っている国債購入にでも回すのでしょう。

国債も1000兆円を超える危険水域に入っていくと思います。











小栗上野介忠順の偉大な功績 その6

小栗上野介忠順に関する明治政府の考え方


明治開明の人小栗上野介忠順」、「横須賀造船所」二冊の本

東善寺資料館見学、そこでの話しを総括する

見解では、幕末の混乱期、薩長連合との争いに負けて

小栗公は家臣三名と共に斬首になりました。

そのことは明治政府の意向による幕府に対する

いやがらせに等しいと思います。


本来は日本の歴史上の偉業を

成し遂げた功績にたいし、野口英雄と同じく

小学校の教科書に載せてもおかしくありません。


しかし明治政府が小栗公を(間違って)斬首したことは

子供達には説明できません。なので明治、大正、昭和の敗戦までは

小栗公の業績について一般には知れ渡っていません。


幕末、勘定奉行を仰せ付けられ、混乱期に横須賀造船所を

立ち上げたことはその後の日露戦争、日本海海戦の勝因の基として

東郷平八郎元帥が、東京の自宅に小栗家遺族を招きねぎらった。


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小栗公はアジア最大の近代工場「横須賀造船所」建設にあたり

請負先についてアメリカ、イギリス、フランスがあがりましたが

頼りにしたアメリカは南北戦争で資金不足、


イギリスについては七つの海を支配する植民地政策と

手段を選ばないアヘン麻薬貿易を嫌って避けると、


最後にフランスを国民性が合っていると判断して選んだが

建設中を含めその後の運営に間違っていなかったことが

証明されました。


余談ですが勝海舟は幕府の大金を使っての造船所建設には

反対をしていました。船の修理は上海、香港ですればよいと

書かれていましたが実行されていたら日露戦争にも負け、

対馬列島をはじめ本土は分断され千島四島返還どころではなく

今の日本国は分断されていたでしょう。


事実、江戸時代文久元年(1861年)対馬列島にロシアの

バルチック艦隊が上陸し占領 していました。


孫が歴史に対して興味がわく小学校高学年になれば

高崎市倉淵町権田の東善寺 参拝を兼ねて見学したいと思っています。


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今回の工和会協同組合親睦旅行と逆になりますが

ついでに磯部温泉一泊、東京電力 上野村神流川発電所見学等の

家族サービスをしたいと思っています。


以上を持ちまして小栗上野介忠順の功績編は終わりにいたします。














小栗上野介忠順の偉大な功績 その5

幕末開明の人 「小栗上野介」


あとがき からの抜粋


作家司馬遼太郎は小栗上野介を評して、「明治の父」と名付け、

その先見性と近代への貢献をたたえた。


上野介が遺米使節として抜擢されて以来の九年間は

まことにめまぐるしく、その混迷ともいえる時代にあって

よく己のなすべきことを見据え、適確にに施策して現実のものに

していった功績は大きい。本書ではそうした上野介が幕末最後の

勘定奉行(財務大臣)を免ぜられて、この倉淵村へ移住してから

の六十五日間その後の人々の動きに視点の半分を割いてまとめた。


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それは、上野介はなぜこの村にきたのか、この村でないをしようとしたのか、

迎えた村人はどの様な対応を見せたのか、

上野介亡き後どんな事があったのか、ということであり寺へお参りに

みえる方々の知りたいことでもあるからである。


上野介の墓をまもるものとして特に感じているのは、あの動乱の中で

村人がよく義心を貫いて小栗夫人を守り通し人としての

道をまっとということで、これあるが故にさらに誇りをもって上野介の

跡を語れることを嬉しく思う。


近年、小栗上野介の業績が世上に認められるようになり、

多くの方が、お参りにみえる。そういった方々と、ともに

上野介の事蹟をさぐり、迎えた村人の対応を知る事は

同時に今を生きる我々の身の処し方を振り返ることであり、

本書がその一助になれば幸いである。


平成20年4月27日ーーーー再販に際して

                    東善寺住職 村上泰賢
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「幕末開明の人」 本より書き写しましたので問題がおきれば

削除いたしますので、ご了解ください。
















小栗上野介忠順の偉大な功績 その4

小栗上野介忠順の罷免そしての非業の死


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横須賀造船所は多くのフランス人技術者を雇い

幾多の困難を乗越えながら建設が進められました。


一方、国内は大きく変化いていた。徳川慶喜は朝廷に

大政奉還をしていたが、幕府と薩摩、長州などの倒幕派との

対立は増すばかりである。


江戸城では慶喜の面前で主戦派と恭順派が激論を交わしていた。

主戦派の急先鋒であった忠順らの意見は退けられ、

お役御免を申し伝える。


罷免された忠順は、上野権田村(群馬県)への

土着願書を幕府に提出し住慣れた神田駿河台の屋敷をはなれた。


権田村の東善寺に落ち着いた忠順は村々の青年を集め外国語

数学などを教えていた。私学校の構想を持っていたようで

今こそ谷から太政大臣(首相)を出してみせる」と語っていた。


しかし時勢はこのようなのどかな暮らしを許さなかった。

官軍(後の明治政府)は反逆の意図ありとのことで

忠順を捕縛し屯所へ引き立てた。


忠順は取り調べを受けることなく鳥川の水沼河原に引き出され

三人の家臣とともに斬首された。時に忠順 四二才まさに

いわれなき非業の死であった。

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「横須賀造船所」より抜粋
小栗上野介忠順は、決して英雄ではない。
しかし世界の大局を見とうせた数少ない人物であり、

日本の将来を視野に入れて事業を起こす

偉大な事業家であったと言えるかもしれない。


坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟など、

幕末を疾走した偉人達にはそれぞれの生きたたがあった。


しかし、死をもおそれず、私利私欲に溺れず、

権勢にへつらわず、自分の意思を貫きながら

国家の隆盛に心血を注ぎ、そして夢破れ、滅び行く体制に

殉じ忠順の生き方も尊敬に値し、認めるべきであろう。


文責・横須賀市立中図書館長 今原邦彦氏


小栗公の詳しい内容は東善寺 のHPに詳しく書かれています。

http://tozenzi.cside.com



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発行 「横須賀の文化遺産を考える会」が売り出した

一冊4500円の高価な本ですがとても参考になりました。


横須賀ドックを中心に右側の人物 小栗上野介忠順

左側の人物はフランス人技術者所長 レオン・フランワ・ヴェルニー


読んでいて日本の工業技術の発展がつぶさにわかりました。


パン屋のオヤジも食品製造業のはしくれなので

「物つくり」の原点は同じで小栗公の生きざまに共感できました。













小栗上野介忠順の偉大な功績 その3

小栗上野介忠順は江戸幕府の御目見得、その後

(おぐりこうずけのすけ)

学問と武術の心得がめでたいとのことで両御番になる。


1853年アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが

4隻の軍艦を率いて浦賀に来航した折に幕府は

驚いて夜も眠れなかった事だったでしょう。


その後、異国船に対処する為に小栗公が警備役をなして忠順は

「三本マストの木造船を建造して大いに貿易をすべきである」

と持論を公言していたという。


安政年間 井伊直弼大老が小栗公に日米修好通商条約批准書の

使節に内命する。二回目ペリー来航したその後、わざわざ

三回目の1860年来日、ポーハタン号でアメリカまで招待する

小栗公を含め77名の日本人と312名のアメリカ乗務員は

一緒に安政7年1月18日築地から出航しました。


時期を同じくこれより先に1月13日、

勝海舟が乗っている随行艦咸臨丸は品川を出航していました。


歴史書や小説には勝海舟がアメリカ訪問については詳しく

書かれていますが小栗公については尊皇攘夷の政権争いに

敗れたために、あえて書物に書かれず忘れ去られています。


ハワイ、カメハメハ王国、同后エンマに謁見の後


サンフランシスコにおいて

小栗公が最初に訪ねたのはアメリカ合衆国造幣局でした。


ワシントンにて

ブキャナン大統領に謁見、国書奉呈の儀式

滞在中に日米修好通商条約の批准書交換し、その後

ワシントン海軍造船所を訪れ人力に頼らない蒸気の力で

製鉄する様子や大砲、兵器、ネジ、釘にいたるまで、その

工程をつぶさに見学していました。


フィラデルフィアにおいて

過去の貿易為替における金、銀の両替ルール不平等を

指摘して新通貨交換・為替レートが決定しました。

アメリカ人スタッフは小栗公の知性と情熱に共感して

交渉が無事に終了した時には、双方に尊敬の念が残った。

小栗公は交渉事で海外で「ノー」と言った最初の日本人です。


ニューヨークにおいて

ブロードウェイでの80万人の市民の大歓迎を受けてました。


当時の各社の新聞には

日本人は善良で、温和で、そして世界でも最高の知性を有している


オグりは使節団の中心である。何ごとも彼の同意がなければ

決定はできない。彼の体のすみずみに、秋霜の厳しさが

みなぎっている。」


小柄だが表情豊かな紳士である。威厳と知性と、信念と、

そして情愛の深さとが不思議に混ざりあっている」と評している。


NYからパナマ、大西洋、アフリカ、喜望峰、ジャワ、香港を

回って世界一周して帰国したそうです。勝海舟の乗っていた

咸臨丸は小栗公がサンフランシスコに到着することが

確認できた時点で帰国をしたそうです。


帰国後、工業製品の基本になるネジ釘を基礎に日本の

工業製品、戦前の潜水艦、航空母艦、ゼロ式戦闘機、隼から

戦後におけるカメラ、電化製品、自動車、等々の発展を

遂げたことは、今回、小栗上野介忠順の祀られている

東善寺の資料館見学で工作機械製造の社長達の共通認識です。


戦前のわずかな昭和時代の年数で軍艦をはじめ航空母艦、

工業技術の粋を集めた軍事兵器を欧米の強国に

負けないだけの技術。


戦後の製造業「物つくり」の基礎となり現在の

精密機械、工作機械の原点になりました。


それもアメリカから持ち帰ったネジ釘からです。三菱グループ、

ゼロ式戦闘機の金属部分は多くのネジ釘が使われています。


大田区下丸子、川崎平間には軍事産業 三菱重工がありました。

下丸子の幹線道路は戦車が左右に曲がるだけの道幅があります。

その事は駐車場用地購入時に初めてしりました。


小栗公が「横須賀造船所」を建設と同時に横浜フランス語学校と

高専(工業専門高等学校・理工系大学並)を立ち上げました。

当時の高専は

黌舎(がくしゃ?)といったそうですが私にはむずかしい

漢字が書けません。横須賀造船所はフランスから大勢の

技術者が参加して4年で立ち上げました。


横須賀市にフランス人技術者ヴェルニーの功績を称えた

「ヴェルニー記念館」があるそうです。

徳川幕府の大いなる遺産「横須賀造船所」

発行者   横須賀の文化遺産を考える会

より抜粋して書きました。


黌舎を卒業した多くの優秀な若者(エリート)は日本の付加価値の高い

工業製品の基礎作りをしてくれたのです。内容はフランス語、英語、

数学、国語、科学、化学、道徳、微分積分まで教えていたそうです。



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ワシントン造船所見学記念写真



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大歓迎の中、ブロードウエイを行進する使節団一行

メトロポリタン・ホテルからニューヨーク市庁舎に向かう使節団を

「日の丸」「星条旗」を飾って歓迎するニューヨーク市民
                          当時の新聞より        

各写真は東善寺 の資料館より
明日も小栗上野介忠順の続きを書いていきます。
























小栗上野介忠順の偉大な功績 その2

東善寺住職 が本にした

幕末開明の人 「小栗上野介」の「まえがき」に感動する

出来事がかかれていました。一冊600円ですが

読み応えのある内容です。


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破壊寸前の江戸幕府を支えた小栗上野介は、ほとんど

信じられないほどの偉業を成し遂げ、それは明治政府に

引き継がれて今日の日本に大きな遺産を残してくれた

人物である。


ところが、明治から近年まで、眼中に徳川しかいない

売国奴とか赤城山中の埋蔵金伝説の主人公として見られていた。


幕末は政争渦巻く激動の転換期であった。

その陰に勝者はなく敗者をとして歴史に消えた

悲運な一人として、小栗上野介をあげることができる。

そして彼の真価は虚構のベールに包まれたまま

忘れ去られていたと言っても過言ではあるまい。


小栗は先見力と胆識を持ち、三河武士としての

意地を貫き通した人である。福地源一郎は、岩瀬忠震、

水野忠徳、ととも「幕末の三傑」にあげているが、

幕末における第一の功労者にあげらるべき人物であろう。


最後まで主戦論を主張して罷免された小栗は、

所有地のうちもっとも辺鄙な上州群馬群田村村に隠棲した。


彼の孤高的性格から誰にも頼ることなく草深い田舎で

天下の形勢を観望しようとしたのであろう。


村民は「小栗様」として敬愛し、小栗も新時代に

生きる若者の教育について構想を持っていた。

しかし隠棲もたった六十余日、

新政府は小栗を反逆者とみなし慶応四年の春、

悲惨にも罪なくして鳥川畔の露と消えた。


本書は小栗上野介の生きざまから何がしかのものを

見いだしていただければ幸甚である。

                    

  執筆者代表  倉淵村前教育長 市川光一

                      

今回の文章は本の「まえがき」から書き写した原文なので

問題が発生したならば消去いたします。


後日 東善寺住職  村上泰賢氏のあとがきを書くつもりです。











小栗上野介忠順の偉大な功績 その1

昨日、群馬県高崎市倉淵町の東善寺に参拝した話を

少しふれました。


私は東善寺が小栗上野介忠順の菩提寺であることも

小栗公の生い立ち功績、歴史上の大人物である事も

全然知らなかったのです。


今回は群馬県上野村の東電の地下水力発電視察が目的で

東善寺 訪問は入っていませんでした。

http://tozenzi.cside.com


小栗公は江戸幕府の代表で遣米使節として渡米しました。

アメリカの文化をはじめ工業製品、造船所視察をした時に

持ち帰ったネジ釘が日本の工業製品の基礎を作ったと

されています。



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したがって工和会協同組合の

大田区下丸子の物作りの精度の高い中小企業が

多く工作機械、精密機械、金属加工は小栗公のネジからと

いっても過言ではありません。ネジは工業製品の

基礎部品でなくてはならない部品と話していました。


と言い切れるのも今回、東善寺 での資料館を見学した

製造業「物作り」の代表である中小企業社長達の意見です。

今回の参加した企業数社はNHK、BSの番組には

常に話題になっている優良会社だからです。


酒の肴にした漬物を手づかみで食べる事に違和感を

感じない社長達ですが工作技術は世界水準を超えています。


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昨日,貼り付けした小栗上野介忠順です。

          (おぐりこうずけのすけただまさ)


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遣米使節で帰りに持ち帰った数十本のネジ釘が今日の

日本工業製品製造業の基礎を作りました。


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当時持ち帰ったネジ釘の説明文をクリックし拡大して読んでください。


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今回の東善寺訪問で驚いたのは勘定奉行の小栗公が

江戸時代に多くの反対を押し切り大金を出費し

横須賀にフランス式技術の造船所を建設しました。


現在は米軍基地の中にあり施設の一部は利用しています。


住職の話では日露戦争勃発した事に関してバルチック無敵艦隊を

撃破した第一の功績は「横須賀造船所」があったからですと

説明されました。


徳川幕府の大いなる遺産

「横須賀造船所」


本の内容は横浜、横須賀は文明開化の最先端と改めて知りました。

東善寺には資料館もありますのでもっと多くの方々が

訪問して小栗公の偉大な功績を知ってもらいたいものです。



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次回も多くの日本人が知らない小栗公に関するのブログを書きます。

















白梅を見ながら東善寺詣り

楽しみにしていた磯部温泉に到着、早速温泉に

入って体をほぐしたのち18:00より

宴会料理になりました。


しかし芸者ではなくミニスカート姿のコンパニオンで

お酌するだけの仕事で芸はありません。

2次会のカラオケまではお付き合いをしましたが

その後のお座敷延長は棄権して早めに寝てしまいました。


理由は前日、錦糸町のタイ料理屋でタイ産赤ワインを

飲み過ぎて体調を崩していたせいもあります。

帰宅時間も遅くなり睡眠時間も満足に取れませんでした。



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    いたる所にある梅干し用の白梅が満開でした。


翌日は東善寺に祀られている小栗上野介を

お参りしてきました。途中、至る所にある

白梅が満開で梅の生産地は和歌山県に次いで

二番目だそうでです。



東善寺までのバスから見える白梅が

とてもきれいです。東善寺は観光地では

ありませんが小栗上野介の菩提寺です。


私は小栗上野介についての知識は

ありませんでしたが、現地で知って偉大な

功績にビックリしました。



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江戸時代の勘定奉行を仰せつけられた小栗上野介の業績は

とても偉大でした。小栗公の自伝は次回書きます。


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東善寺お参り後、ダム中止で話題になった八ッ場ダム付近。

建設中の空中道路をバス中から見学してきました。


100年に一度の水害防止だけの為にある公共投資なので

中止は当然です。


話題になる前は数回、草津温泉旅行をしていた時に通った道でした。

ダムに沈む予定の車道脇の渓谷には遊歩道が数キロあり

新緑の季節にはとても綺麗な場所でした。

近場の温泉も営業できて良い結果になりました。













下丸子地区 工和会協同組合の東電ダム視察バス旅行

下丸子地区 工和会協同組合の研修視察旅行がありました。


サロンバスを借り切って3月13日~14日にかけて

群馬県磯辺温泉で一泊してきました。


7:30予定通り出発しましたが第二国道、首都高、関越道

いたる所で自動車事故に遭遇して渋滞に巻き込まれました。


最近は高速道路が1000円でどこまでも走れるので

普段運転していないペーパードライバーが多くなり

事故、渋滞が多くなったとガイドさんが話していました。


下丸子地区は中小企業の町工場が多く優秀な工場も

数多くあります。キャノンは大会社ですが最初は

小さな工場から立ち上げたと聞いています。


しかし今回の不況の谷は深くとても深刻な状態です。


でも工作機械、精密機械、金属絞り等の企業は

自己資本率がとても高く過去の不況時代を何回も

乗り切ってきました。カタカナ名で実態が判断できない

会社は一社もありません。


したがって毎年、企業訪問を兼ねた親睦旅行は

楽しみにしています。


工和会館前に集合して出発前からサロンバスでの

飲食、群馬県上野村の昼食料理の動画です。

中小企業経営者の品性、品格か

よくでている光景です。


映っている社長達は30代で独立し他社で出来ない

特殊加工技術を持ち合わせています。したがって

強烈な個性をもっている方々です。




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7:30出発前の風景です。



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早朝7:30からビール焼酎、日本酒飲み放題の

サロンバスでの様子



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上野村での昼食は「鱒池」でも料理です。

マスの刺身がありましたが泥臭さはありません。

思ったより美味しく塩焼は酒の肴にあっていました。


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昼食後バスで移動し東京電力「神流川発電所」見学をしてきました。


二つのダムがあり

上部のダム 長野県南相木村ダム

下部のダム 落ちた水を貯める群馬県上野村ダム


日中は上部と下部ダムを6kmで結びこの間の落差653mを

利用して水力発電します。

夜間は下部に貯まった水を上部ダムに戻す仕組み。

夜間電気は原子力でできた電気と小声で話していました。


世界最大級の揚水式発電所です。

今は第一基を動かしていますが第6基までの設計があるそうです。

数字を聞いてもピーンときませんが一基47万KWだそうです。


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地表から500m地下に地下発電所があり大空洞がありました。

現場まで2キロメートル近くのトンネルを専用バスで行きました。


写真撮影、ビデオ撮影は高度なポンプ水車、発電電動機が

有りますので禁止されていました。現場を見学して感じたことは

日本の土木、超大型工作機械、ボーリングマシーンは世界一の

技術大国と確信できました。


次回の夏休みに「孫でも連れて見学させたい」との思いになりました。


とてもよい勉強ができました。