『応仁の乱』

(おうにんのらん )       

 

室町時代。1467年~1477年までの

約11年間にわたって継続した内乱。

 

 

応仁の乱という言葉を皆さん知っているでしょう。

学校の授業で習っている筈ですから。

 

しかし、応仁の乱を何かしらでよいので、説明して下さい。

と言ったら、大半の人ができないでしょう。

 

恐らく、授業で教えた学校の先生も

明確に説明できなかったと思います。

 

教える側がよくわかっていないのに、

教わる側が理解できるわけがないとも言えます。

 

そもそも応仁の乱が何故起きたのか。

それがよくわからない。

 

長きにわたり、膨大な人数を巻き込んだ日本史に残る大乱。

その起きた理由がよくわからない。

 

思わず、なんでそんな事をしたの?

と当事者達に聞いてみたいところです。

 

 

 

敢えて、その複雑怪奇な応仁の乱に触れると、

起きた原因は、将軍の後継者問題と捉える事ができます。

 

時の将軍・足利義政が後継者指名を二転三転したのが発端。

そこには、色々な人間の思惑が絡みます。

 

足利義政の妻である日野富子は恐妻。

足利義政は、妻に牛耳られ、

自分の意志で政治を行えなくなった。

 

なんとも情けない将軍だが、

足利義政は、政治に興味が無く、将軍職が嫌だった。

 

トップがこうだから、日本の国が滅茶苦茶になります。

典型的なトップが無能で、国が駄目になるパターンです。

 

この将軍家の跡継ぎ問題に、

有力大名の覇権争いが絡んで、

問題は複雑化していきます。

 

さらに、裏切り、寝返りも横行し、

敵が味方、味方が敵になったりで、

しっちゃかめっちゃか。

 

長期にわたり、争いが続いたが、

やがて、乱の中心的な有力大名が、相次いで病死したり、

何の為に戦っているのかわからなく、

全体的に厭戦気分が高まり、

争いは、終息に向かった。

 

 

 

後継者問題は、足利義政の息子である義尚が継ぐが、

応仁の乱後、25歳の若さで亡くなる。

父である義政より結局、先に亡くなる。

 

応仁の乱の原因が後継者問題なら、

こうして応仁の乱の後に

後継者がすぐに亡くなり、

争った目的の意味を失ったのであります。

 

 

 

応仁の乱は、結局のところ、誰も得をしない争い。

全員が徒労に終わるなんとも不毛な争い。

何の意味も見いだせない、実に虚しい争い。

 

そんな無意味な争いを

何故、神は止めなかったのか。

 

 

 

応仁の乱以前は、

貴族は貴族、豪族は豪族、庶民は庶民で、

身分は厳格に分けられていました。

 

その身分は、決まっており、

庶民がどんなに力をつけても、

豪族や、ましてや貴族にはなれませんでした。

 

しかし、応仁の乱を契機に、

庶民でも力をつければ、豪族に

そして、貴族になれる端緒が開いたのでした。

 

角度によっては、

日本のターニングポイントと言われる応仁の乱。

 

応仁の乱の後、

戦国時代の幕開けが訪れ、

激動の時代を迎えるのでありました。

 

 

 

 

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