大分市寒田に鎮座する西寒多神社(ささむたじんじゃ)は、『延喜式 卷十』に記される神社【式内社】のひとつで、『大日本國々一ノ宮』 という祝詞に記される「豐後國一宮」とされています。


しかしながら…。


豐後國大野郡 一座 大 西寒多神社

~『延喜式 卷十 神名帳』~


豐後國大野郡 西寒多神社 杵原大明神

~『大日本國々一ノ宮』 【祝詞】~


と、記されていることを考察すると、大分郡(おほいたのこほり)【碩田郡(おほきたのこほり)】の地に鎮座する、この西寒多神社ではなく、豊後大野市【旧・大野郡(おほののこほり)】に鎮座する西寒多神社 が、いわゆる「式内社」・「豐後國一宮」なのでは?とする説もあります。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社①


西寒多神社

[所在地] 大分県大分市寒田1644番地(地図

[経緯度] 北緯:33度10分21秒/東経:131度35分54秒

[御祭神]

 《正面》

 西寒多大神(ささむたおほかみ)【天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)

 《左相殿》

 月讀大神(つくよみのおほかみ)

 《右相殿》

 天忍穗耳大神(あめのおしほみみのおほかみ)

 《相殿》

 伊弉諾大神(いざなぎのおほかみ)

 伊弉册大神(いざなみのおほかみ)

 大直日大神(おほなおびのおほかみ)

 神直日大神(かむなほびのおほかみ)
 天八意思兼大神(あめのやこころおもひかねのおほかみ)

 大歳大神(おほとしのおほかみ)

 倉稻魂大神(うかのみたまのおほかみ)

 軻遇突智大神(かぐつちのおほかみ)

 《相殿》

 應神天皇【品陀和氣命(ほむだわけのみこと)

 神功皇后【息長帶日賣命(おきながたらしひめのみこと)

 武内宿彌命(たけうちのすくねのみこと)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社⑦  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社⑥
西寒多神社の扁額


 息長帶日賣命【神功皇后】2年(202年)10月、三韓出兵より帰還される途中の神功皇后が、西寒多山【現在の本宮山】を訪れ、国家を叡覧された時に、その証(あかし)として一本の白旗を立て置きました。土地の人は、これを敬い籬垣(ませがき)を結んで尊崇していました。


豐後國大分郡西寒田神社者當國之一宮而所祭神三座也 抑奉號西寒田神社者神功二年庚辰冬十月神功皇后討平於三韓御歸陣之時御幸西寒多山而叡覧國家 即爲其證立置一本白旗矣 國人敬之結籬垣而奉尊崇皇威矣

【豐後國大分郡の西寒田神社(ささむたのかむやしろ)は當國(このくに)の一宮(いちのみや)にして祭(まつ)りませる神(かみ)は三座(みはしら)ぞ。抑(そもそも)、西寒田神社と號(い)ひ奉(まつ)るは、神功二年庚辰冬十月、神功皇后(じんぐうこうごう)、三韓を討平(うちたひら)げ陣(いくさ)御歸(かへり)ましし時、西寒多山(ささむたやま)に御幸(いでま)して國家(くにのかたち)を叡覧(みたま)ひき。即(すなは)ちその證(あかし)と爲(な)し一本(ひとはしら)の白旗(しらはた)を立(た)て置(お)かむ。國(くに)の人(ひと)籬垣(ませがき)を結(むす)ひて敬(うやま)ひ、皇威(みいつ)を尊(たふ)み崇(あが)め奉(まつ)らむ。】

~『西寒多神社縁起』~



 その後の應神天皇の御宇【應神天皇(278年)4月】に、天皇は武内宿彌に豐後國への下向を命じて、天照皇大神月讀大神天忍穗耳大神の三柱(みはしら)の神を祀る社殿を、西寒多山本宮山】の頂に建立し、西寒多神社と称するようになったそうです。


人皇十六代應神天皇御宇 奉奏聞宮殿建立願御門有叡聞勅 武内宿彌乃下向豐後國而建立如法宮殿而鎭三座神 正面者天照在 相殿者月讀尊 右相殿者天忍穗耳尊也 故令寄進大分郡而奉號西寒多神社矣

【人皇十六代應神天皇の御宇、宮殿(みや)を建立(たて)む願(ねが)ひを聞(き)き奏で奉(まつ)る。御門(みかど)の叡聞(えいぶん)(あ)り勅(の)りたまはく。「武内宿彌(たけうちのすくね)の豐後國(とよくにのみちのしりのくに)に下向(くだりむか)ひて法(みのり)の如(ごと)く宮殿(みや)を建立(たて)て三座神(みはしらのかみ)を鎭(しづ)めたまへ」。正面は天照(あまてらす)(ましま)す。相殿(あひどの)は月讀尊(つくよみのみこと)。右相殿(みぎのあひどの)は天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)ぞ。故(かれ)、大分郡(おほきたのこほり)に寄進せしめて西寒多神社と號(なづ)け奉(まつ)らむ。】


~『西寒多神社縁起』~


 繼體天皇【袁本杼命(をほどのみこと)】21年(528年)の「新羅の騒動」【磐井の乱】の時、土地の人は信心を怠り、参詣を断ってしまい、社殿は大破するほどになっていました。その時、卜部氏(うらべうぢ)と與巨勢氏(よこせうぢ)によって再興されました。


于時人皇廿七代繼體天皇御宇 同二十一年有國中欲討新羅之騒動 故國人懈信心斷參詣 既當社曁大破矣 結草爲井墻以茅茨覆宮殿數送星霜而内外爲塵刹 于時卜部氏與巨勢氏合心奉恐神威再興

【于時(そのとき)、人皇廿七代繼體天皇の御宇、同二十一年、國中(くになか)に新羅(しらぎ)を討(う)たむと欲(おもほ)す騒動(さわぎ)(あ)り。故(か)れ國人(くにびと)信心を(おこた)り參詣を斷(た)ちき。既(すで)に當社(このやしろ)、大破に曁(およ)ばむ。結草(くさのいほり)を井(ゐ)の墻(かきね)と爲(な)し、茅茨(ぼうし)を以て宮殿を覆(おほ)ひ、星霜(としつき)を數(かぞ)へ送(おく)りて内外の塵刹(じんせつ)と爲(な)す。于時(そのとき)卜部氏(うらべうぢ)、與巨勢氏(よこせうぢ)(こころ)を合(あは)せ恐(かしこ)み奉(まつ)り神威を再興(ふたたびおこ)したまふ。】


 敏達天皇【沼名倉太珠敷命(ぬなくらのふとたましきのみこと)】2年(572年)9月15日、西寒多山の南に幡(はた)のような赤白の八雲(やぐも)があらわれ、西寒多山の樟(くすのき)の梢(こずえ)には、三つの星が現れて光を放っていました。この時に老人が「この霊妙は尊い神である。どうして参詣しないでいるのか」と教え、自ら七日の潔齋をして西寒多山に登り、幣を捧げ國中の貴賤の群衆と恭しく敬い礼拝しました。


 またさらに、11月にも西寒多山に同一の現象があり、西寒多山の頂に石を立て「寶殿」として敬敬うようになったそうです。


 実際に、西寒多神社の参詣に訪れた日、西寒多山の上空に帯(幡)のような棚引雲に彩雲がかかり、私たちを迎えてくださいました(笑)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社②


于時人皇三十一代敏達天皇二年菊月十五日 從西寒多山南上見嶽 起一片雲於中有赤白八雲 即西寒多山奥数町計有一本櫲樟樹 有暫時赤白八雲 如幡留 彼櫲樟樹梢而三星現而放光 數日衆人作希有思 于茲有老人謂其名於繰生清海敎邑人曰 是靈妙尊神也 豈不奉参詣矣 即自七日潔齋而到彼山中 奉捧幣國中貴賤作群衆而恭敬禮拜 又至霜月中五日遷西寒多山放光如前 依之清海於西寒多山頂立石寶殿而奉敬也

【于(こ)の時(とき)、人皇三十一代敏達天皇二年菊月十五日、西寒多山の南(みなみ)より嶽(みね)の上(うへ)を見(み)る。一片(ひとかけ)の雲(くも)の起(お)きる中(うち)に赤(あか)(しろ)の八雲(やぐも)有(あ)り。即(すなは)ち西寒多山(ささむたやま)の奧(おく)数町計(ばか)り一本の櫲樟樹(くすのき)有(あ)り。暫時(にわか)に赤(あか)(しろ)の八雲(やぐも)(あ)り。幡(はた)の留(とどま)るが如(ごと)し。彼(か)の櫲樟樹(くすのき)の梢(こずえ)にして、三星(みつぼし)(あらは)れて光(ひかり)を放(はな)つ。數日、衆人(もろびと)作希有思。于茲(ここに)、老人(をきな)(あ)りて謂(い)ふ。「其(そ)の名に清海を生み繰(く)る」。邑人(むらびと)に敎(をし)へ曰(い)ふ。是(こ)の靈妙尊(たふた)き神(かみ)なり。豈(あに)参詣せず。」即(すなは)ち自(おのず)から七日(なのか)潔齋して彼(か)の山(やま)の中(なか)に到(いた)り、幣(みてぐら)を捧(ささ)げ奉(まつ)り國中(くになか)の貴賤の群衆を作(つく)りて恭(うやうや)しく敬(うやま)ひ禮拜(をろがみまを)す。又(また)、霜月中五日に至(いた)り、西寒多山に遷(うつ)り、光(ひかり)(はな)つこと前(さき)の如(ごと)し。依(より)て清海に之(ゆ)き西寒多山の頂(いただき)に石(いは)を立(た)て寶殿として敬(うやま)ひ奉(まつ)るなり。】

~『西寒多神社縁起』~



 應永15年(1408年)3月に、大友親世によって西寒多山の頂より麓の現在地に遷座され現在に至っています。西寒多山【本宮山】には現在も奥宮として社殿が鎮座しています。


 また、西寒多神社の参道を流れる寒田川には万年橋(まんねんばし)【大分県指定有形文化財】と呼ばれる石造の橋が架かっています。文久2年(1862年)に寒田村の庄屋らが発起し、大野郡柴北村(現在の大分県豊後大野市犬飼町)の石工2代目後藤郷兵衛らによって竣工したそうです。橋長は22.0m、橋幅は3.7mです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社②
万年橋



 万年橋のすぐ横には藤棚もあります。5月上旬には藤の花とその香りに溢れる花道になるのでしょうね。参詣に訪れたこの日は、既に花は終わり新緑の時期を迎えていました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-西寒多神社⑤
万年橋横の藤棚


 神功皇后の国家叡覧の証蹟を崇敬することにはじまった西寒多神社は、およそ1700年の昔から鎮座する古社です。「豐後國一宮」は、大分郡なのか大野郡なのかは謎に包まれたままですが…。