<先週の講壇より>

 

聖書箇所:ヨハネ5:1~18

説 教 題:『働く神さま』

 誰も自分に目を向けてくれないということは、今の私たちにもあることなのではないでしょうか。私たちは自分では気にしていないつもりでも、案外と人の目が気になります。自分の格好悪いところは見られたくないと思っていると思います。もう17~8年前の話なんですが、自転車(マウンテンバイク)で転んだことがあったんです。ちょっと急いでいたので、スピードを出していたんですけれども、街路樹の根っこがアスファルトを下から持ち上げてボコッと出っ張ってるところを通っちゃたんです。そしたら前輪がガタガタってなってそのまま左の側溝に前輪ががくんって落ちて、前につんのめるようにして、一回転して転んだんです。自転車が自分の上を越えていったんですよ。

 で、道に倒れて自分がどうしたかというと、もうすぐにガバっ!て起き上がって、「誰かに見られてへんかな??」って周りをきょろきょろ見渡したんですよね。後から考えると「真っ先に思うのそれ?!」と思うんですけど、それでタイヤがパンクしまして、ぷしゅーッと空気が抜ける音を耳にしながら、しかもしこたま足をぶつけてましたから、(痛い~、痛い~)と思いながらも自転車をおして、でも顔は(何でもないよ、ちょっと自転車押してるだけよ)みたいなすました顔して、やっぱり人目を気にして歩いてる自分がいたんです。誰も見てませんでしたけどw

 私たちは、結構人目を気にする部分があります。でも実は、人は意外と自分のことなんか見ていないんです。興味がないのもありますし、みんな自分自身を見ている。人のことなんか見ている余裕がない。そういう人も多いんじゃないかと思うんです。自分は人目を気にするくらい人を意識しているけれども、でも誰も自分に目をとめようとしてくれていない。自分の痛みに気づいてくれないというのは、今の私たちも感じることなのではないでしょうか。

 でも、ここでイエスさまは彼に対して働いてくださいました。そしてそのイエスさまの働きは何から始まっているかというと、6節からお読みします。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」。見た。だれも目を向けてくれなかった彼を、イエスさまは見てくれたんです。そして、彼を知ってくれた。そして、声をかけてくれたんです。誰も目を向けてくれない自分に対して、ちゃんと目を向けてくださる。見てくださる。イエスさまって、そうやって皆さんおひとりひとりにもまなざしを向けていてくださる。そして、あなたの痛みに目を向け、その痛みを知り、御声をかけてくださる。そうやってイエスさまは、確かに皆さんおひとりひとりに働いてくださるのです。

 

「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」(ヨハネ5:17)

 

 

 

<次週の礼拝のご案内>

 

聖書箇所:ルカ15:11~32

説 教 題:『喜ぶ神さま』

 この個所は「放蕩息子」というたとえ話として、聖書の中でも有名な個所です。でもそれでよく取り上げられるのは、弟息子とお父さんのことではないかと思ます。でも今回は、お兄さんと弟と、両方の姿を見ながらこの個所を見てゆきたいと思います。

 

 教会の礼拝は、どなたでも参加することができます。どうぞ気兼ねなくお出かけ下さい。あなたのお越しを心よりお待ちしています!その際には、マスク着用、手指のアルコール消毒、三密を避けるなどのご協力をお願いしています。なお、ライブ配信も継続して行いますので、続けてそちらもご利用ください。

 

ライブ配信はこちら↓