今日は朝から本の売りさばき。
5年前に購入した中古コピー機2台が天寿を全うしたため、廃棄2台&新加入1台の受け入れ。
などという並大抵の人ではできない非常に高度な雑務をこなし、ついつい・・
本の売りさばき
+3万1千800円
コピー機の廃棄&新機(中古)購入
ー17万9千300円
合計
ー14万9千300円
を焼肉1食で割って○回分飛んだな・・・と、「ぴえん」な昼下がりです。
お金は減りましたが体重は減らないので、動画でみなさまにお会いできるのはまだまだ先となります。(もう、ダイエットええか・・・)
さて、今日は件名の通り超硬派、超ゴリマッチョな内容を
書きます。
昨日、灘高に『令和3年センター試験・・』と印字された共通テストに関する書類が届いたとキムタツ先生が発信され、話題になっておりました。
それはさておき、この数十年、文科省をはじめ、有志の、伊勢谷友介氏をはじめとする篤志家の方が学校建設や運営に乗り出したりなど、いわゆる「教育改革」や「新たな教育」的なノリが後を絶ちません。
不肖、重本、こんなネットの片隅で言わせて頂きますと、どんな体制の学校を作ってもそれによって教育に改革が起こることはあり得ないと思っております。
それはなぜかと言ったら、教育とはつまるところ価値観の植え付けであり、人間というのは、スズメ100まで踊り忘れず、3つ子の魂100まで、伊勢谷の葉巻500本というように、その価値観というのはおおよそ育ての親で決まる、すなわち現代においては自分の親によって形成されるものだと思うからです。
昔、雑誌の致知か何かで、武蔵の校長先生が「優秀な男児に必ず賢母あり」だと仰っていましたが、個人的には優秀かどうか、男児か伊勢谷かはさておき、とにもかくにもほとんどの人間というのは親の価値観を多分に受け、それがベースとなって人生を形成するものだと思います。
で、問題はここからで、その親の価値観というのも、結局は社会の価値観の範囲内に多くの場合収まるわけですから、結局、社会風潮として何を重視するか?という部分が変わらない限り、学校教育はその根は変わらず、今のまま大筋で続いていくはずだと、そのように思うわけです。
江戸から明治、戦前から戦後のように社会全体的に価値観、それにともなって重視するポイントが変わらないと9割方の人間の価値観は変わらず、したがってその子どももこれからも根幹は何も変わらないはずです。
話がだいぶ抽象的になってボヤけてきました。
具体的に言うと、ていうか個人的に「もっとこうなったら国にとっても、しいては、国民の幸せにとってもいいのではないか?」というのは、やはり受験のために勉強するのはやめようということです。
読者様からされますと「じゃあ、まず、お前が塾辞めろや!」的な、、、シゲちゃんからすると「いや〜、これは1本取られましたな。」的な感じもあるのですが、塾は塾でやはり「受験したい」というの子のために、勝手ながらあってもいいかと思ってます。
誤解を招く表記をしているところが誤解を招く表記をしているところに誤解を招く表記をしている!とケチをつけるなどは「ん?草でも吸ってるのかな?」とは思いますが、基本、学校の授業では満足できない子へのサービスとして塾は悪くないのではないでしょうか。
ただ現在、あまりに受験にこだわり過ぎて活かされていない才能が多いような気がしてならないというのが個人的に思ってることです。
要は高度なオールラウンダーを求められ過ぎているといいますか・・・
全国で各自の特技が発掘されずに眠ってる感があるような気がしてなりません。
国に言いたいですよ・・・
まずなんちゃら方程式以前に
税制・社会保険制度について詳しく教えといてくれ!!!!!!
副教科でマーケティングなどもあった方がいい!
昔、講師採用に躍起になっていた頃に、とある旧帝大でゼミでマーケティングを取り扱ってたっていうやや上から目線の兄ちゃんと面接したことがありましたが、私の感想としては「まずもって小学生レベルの礼儀作法すら躾けられてないお前からは何売られても絶対買わねー!」って感じでございました。。。
#大学とは?
早い話、世の中の大半が、高学歴→有名企業に就職、の価値観できてるので、それにそぐわない、いわば学校の勉強が学校のカリキュラムペースではキツイ人が自分の能力を他に模索する余裕や発想を与えないし、不要な劣等感も抱くし、また、逆に個人的にはこっちの方がより問題なんじゃないかと思っているのですが、実はその高学歴→有名企業に就職の価値観にがっつりハマってきているが故に、今度は逆にいざ大人になって親元を完全に離れて「あとはご自由にどうぞ。」ってなってから気づけば路線変更不可避で自由のない(自分という人間が根源的に持っている真善美に合わない)人生でストレスを溜めながら人生を消化するパターンもこれはこれであると思ってます。
要は「嫌なら辞めりゃいいじゃん。」とガチで思ってる人がいる一方で、「頭では分かるけど、できねーんだよー・・・」とイライラを募らせ、下手したらそのままネットにおいて誹謗中傷匿名係長に昇格、みたいな。
私の年下の知り合いで、灘中→灘高→1浪の末どこそれ?大学、挙句1留を経て現在中学受験の塾を開いている人がいるのですが、ぶっちゃけ人気塾で嫁さんも子どももおり、どの角度で見ても幸せそう以外の何物でもありません。
また同じく年下の知り合いで、田舎の公立高校から現役で東大→ボスコン就職→英語個人塾開校(やはり人気塾)という人もいるのですが、この人はボスコン在籍時、とある世界的企業であるジ○ットフュー○ョンのマーケティングを担当した際に「俺の人生、知らん人が働いてる会社のカミソリの売り上げ伸ばすために使うんか?」と疑問に思い、知り合いの個人塾で講師修行を経て今に至るという感じです。
ちなみに私は18歳まで野球漬け、高3の10月の進研模試の英国世の偏差値30ちょいの近大5年を経て塾開校で現在13年目です。
結局「幸せになる」という心の平安を目指す過程で、“ルート”にこだわり過ぎるとストレス貯まっちゃったり、選択肢たくさん持つつもりが、皮肉なもので逆に気づけば選択肢(自由)を減らしちゃうと思うんです。。。。
異論も多いに予想されますが、結局、それなりの年齢になっても「あれ・・なんかどんどんストレス溜まるな・・・くそったれ・・・」みたいな人が、自分と異なるルート(学業イマイチだったのに大人になってウマいこといくみたいなパターン)を許さない傾向が強くて、逆に心の平安、すなわち自分の幸せ感にたどりついた人は「ルートはなんでもいい」ってことを悟って、人に道を強要することもない傾向が強いような気がします。
勉強の基本は、知りたいときに知りたいことをとことん追求することで、もちろんそれは「どうやったら売れるか?」「どうやったらモテるか?」「どうやったら幸せなれるか?」でもなんでもいいです。
私だったら「どうやったら生徒さんが持ってる力を最大に発揮する状況になるか?」を恒常的に意識して過ごしてます。ていうかほぼ無意識にそれが思考の中枢にある生活です。
要は学びたいことを学ぶのが一番力発揮するはずだっていう考えがあんまり社会的な価値観として浸透してないと思えるところに、私の勝手な「残念だな〜」っていう感じがあります。
子どもは強制しないと勉強しない!!!っていう塾の先生なんかには言いたい。
「それ、、、、お前はしないだけな。」
あるいは
「それ、、、、お前の話に魅力がないのを子どもの責任に転嫁してるだけな。」
と。
水槽の真ん中に透明の敷居を入れられた金魚は、その後敷居を外しても敷居があった場所の向こう側に行こうとしないという実際なのか、比喩なのか、よく分からない話がありますが、これなんかは、勉強を強制され過ぎて、その強制がなくなったら何も学ぼうとしなくなるパターンの完璧な比喩だと思います。
「それは自分で決められるよね。」
「一応確認やけど、やりたくなかったらやらんでええんやで。」
不思議と大人がこの態度の方が子どもってどこかのタイミングで勉強して力発揮するんですよ、これが。笑
(この辺で光博くんとは根底の感覚が合うんです)
そういうのが面白くてこの仕事はやめられんのです、ええ。。。
今後究永舎生も各自、のめり込める仕事見つけて欲しいですワ。
ではまた。
【究永舎】
2008年6月に豊中市に重本孝が開校した進学教室です。最初は高校受験の塾としてはじまり、2014年シーズンからは大学受験を対象とした高校生クラスを開講。現在は中2〜高3の講座全てを重本が担当するユル〜い個人塾なのに毎年難関校合格者が生まれる摩訶不思議アドベンチャーな教室です。
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究永舎 大阪 北摂 豊中市にある高校受験・大学受験で連勝を目指す教室