今日は晩に高3の英語があるだけで

日中は何人かのその高3の生徒さんと

話をしていたのですが、

その中でここ4、5年くらいの

疑問がやっと解消され、

今日は夕方から今までにかけて

いつも以上に高揚感を持って過ごせました。

 

 

などと書くと大袈裟で、

実際はすんごい地味なことです。

 

 

ほとんどの生徒さんは

そうではありませんが、極マレに、

その成績の良し悪しに関わらず、

どこを受けるかは分からないけれど、

最終的には必ず合格して終わるな、と

心の底からそうなるとしか思えない生徒さんと、

どれだけ数字的には届きそうでも

悪い予感しかしない生徒さんというのがおられます。

 

 

・・・で、やはりそうなります。

(それで落ちた子はいないけど

たまに無事に終わる子もいます)

 

 

“そう感じてしまう分かりやすい理由”が

それなりに自覚できれば頭の中で

モヤモヤも残らないのですが、

理由が見つかったと思ったら、

「ああ、でもなんか違うな・・」の

繰り返しで、「なんでだろな〜・・」と

ずっと自分の中ではモヤモヤしていたのです。

 

 

で、そのモヤモヤが今はすっきり晴れて全くないと。

 

 

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる

浮世の月に かかる雲なし

 

状態だなと。(まだ死なないけど

 

 

で、それが何かって言いますと、

ズバリ情報の選択センスです。

 

 

 

なんか当たり前なのですが、

この“情報の選択”という単語が

自覚できるまでに数年を要しました・・・

 

 

でも今は自信を持って言えます。

 

 

学力や努力以前に

情報の選択ができるかできないかというのが

むちゃくちゃ大事なのだと。

 

 

例えば、何かにおいて3つの選択肢が

提示されたときに普通は迷ったり、

全部をとりあえずカジろうとしたり、

とにかくなかなか決められなかったりします。

 

 

しかし、なんかよく分からないけど、

“普通はもっと迷うよね?”とかいう場面で、

(何度も言いますが)その学力の有無に関わらず、

最終的には必ず受かって終わるだろうなタイプの

生徒さんというのは全く迷わない、というよりは

選択肢が最初からそれしかないかのような

判断で前に進んでいきます。

 

 

人間はデフォルトが

優柔不断だと思うのですが、

そういうタイプの生徒さんというのは

自分で決めなきゃいけないという場面に際し、

 

「分かりません」

 

とか

 

「・・・。」

 

というのがありません。

 

 

むしろコンセンサスも

アナウンスもナッシングで

あっさり自分で決めて

“迷い悩む時間”というのが

ありません。

 

 

違う表現をすれば

 

我が辞書に「決断先延ばし」の文字は無い

 

という感じ。

 

 

 

これって・・・・

 

 

 

そうですよね、

仕事デキる人って

高学歴、低学歴、高卒、中卒

いらっしゃいますが、

みんなタイプ的には全員“この手の人”

なのではないでしょうか?

 

 

 

情報は取ることよりも

むしろ選ぶことにその本質はあって、

あることを達成するのに、

そこまで経験があるとも言えないのに、

無駄が無駄と分かるというのが

“センス”なのかな?と今これを

書きながら思っています。