【陰隲録】改過⑰ 心こそ全て。心以外には何もいらない(脳髄だけになりながら) | (旧館)豊河怜の開運ネットワークブログ

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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)

 

なお、コメントやメッセージやメールで、皆さんの陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、陰徳と結果の体験談を大募集中です。ご遠慮無く、書き込み下さい。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

 

 【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら

 


改過を実施する際の、工夫(テクニック)三原則です。
事上(個々の悪事)を改める方法と、理屈から改める方法、そして心から直接改める方法の三つです。
 
一つ目は、事上(個々の悪事)を改める方法は、モグラ叩きでよくないという話でした。
二つ目は、理屈から攻める方法です。
三つ目は、心から直接改める方法です。
 
今回から、三つ目の心から直接攻める方法です。



心の上から改めるとは一体どういう意味であろうか?
それは、過ち(悪行)が、いくらパターンがあろうと、莫大な実例があろうと、根本はただ一つ。
心である。
心が作り出しているだけのことである。

自分の心が動かなければ、どこから、過ちが来るというのだろうか?
全ての悪は心が生み出しているのである。

 

 

 

【ドラッグ・・・ダメ・・・絶対・・・!】


前回の、特定アジアから、また国境が飛びました。
インド哲学の世界です。

国境を介さないグローバリゼーションに即したブログです。

一切の世界は、心が生み出す。
 

この、唯心思想(哲学)は、インド人が大好きな思想で、仏教を通して、日本にも入ってきています。

基本、この思想は、当然のことながら、通常の社会人の発想ではありません。
世間から離脱して、働きもせず、日がな一日、瞑想して、脳内麻薬や外部からのドラッグを摂取して、内的世界にイッちゃってる修行者の発想です。

LSDを摂取したヒッピーも、同じようなことを、現代でも言っています。

どういうことかというと、基本、我々一般人は、目をつぶっても大してリアリティの無い空想しか出来ないわけです。
しかし、瞑想や苦行やドラッグの使用者、また、霊能者や共感覚者などの、生まれつきの才能がある人間などは、違います。

 

強度の変性意識状態の世界が生成されると、目をつぶっても、自分だけにしか見えない世界が生成されるからです。

いわば、現代人の感性で言えば、バーチャルリアリティの世界です。
SFなどでよくある、ネットゲーの世界へ、電脳で行くようなものです。

今の流行りだと、異世界転生物でしょうか?


客観的に見れば、本人はただ寝ぼけているだけにしか見えないのですが、本人の主観は、仮想空間で、本物と同じくらいリアルな世界に入っているのです。
※下手をすれば本物の世界よりも、強力なリアリティがある世界です。


もっと言えば、我々一般人の観点から言うと、眠っている時に見る夢がそれです。
客観的には、布団に入って寝ているだけの我々ですが、主観的には、夢の世界にいるわけです。
それを、昼間にやるようなものです。

これは、当たり前ですが、普通の生活を送っている普通の人間では出来ません。
しかし、事故や病気などで臨死体験をすると、同じように変性意識状態になるため、このような世界を見ることもあります。
また、誰でも死ぬ際には、脳内麻薬が大量放出されるので、やはり見ることが出来ると思われます。

以前も指摘しましたが、これが、死後の世界の可能性というのは極めて蓋然性が高いでしょう。
強度の人間の集中力は、走馬灯のように、一瞬で一生を体験します。
時間間隔が大幅に狂ってしまうのです。
死の間際の瞬間に、主観的に、何年、何百年、何万年も、体験してしまっている可能性はありえます。

当然、その世界がハッピーなトリップになるか、バッドなトリップになるかは、状況次第です。
前者だったら、天国でしょうし、後者だったら、地獄でしょう。
本人の今までの経験や、死ぬときの状況によるのでしょう。

ここに、陰徳を積むということの重要性があります。
死ぬときの状況は運なので、確実とは言えませんが、陰徳を積むことで潜在意識(唯識思想では阿頼耶識)に、着実にいい種を植えることが可能です。
死ぬ瞬間の内的世界で、ハッピートリップになるように、しなければいけません。

陰徳を積まずに、下手に罪悪感や、自傷感を持つような一生だったら、目も当てられません。
どの宗教的教義を見ても、死後の世界(死ぬ瞬間の走馬灯世界)は、くそ長いのが実際です。
何万年どころか、何億年とかもざらです。
※一神教だと、天国か地獄かの二択で、かつ永遠です。

以前にも書きましたが、我々は、進化心理学の遺伝子上の所以か、もしくは、この現代日本という民度の高い時代に、生まれて極めて高い倫理観(厳密に言えば、倫理観を保てるような環境)を持っています。

そのため、無意識に必然的に、因果応報を実行する、システムがデフォルトでイントールされています。

 

死ぬ寸前で、脳細胞が破壊され、大量に脳内麻薬が出ることで、今まで溜め込んだ潜在意識が解放されることで、その時の情報が天国か地獄になるかを決定する可能性が高いのです。

要するに、表面意識では正当化していても、自分は~の悪事をやったから裁かれなければならないと「無意識的に」思ってしまっていて、それがバッドトリップに反映される可能性です。

 

逆もまた然りです。

我々は、謙虚を美徳とする日本人ですので、自分の功を誇らしく宣伝するような輩ではありませんが(そもそも陰徳なので人に言わない)、表面意識では、隠していても、潜在意識では、因果応報(があると思っている無意識)で、自分に褒美を与える価値があると思っています。

それが、死ぬ寸前に解放されると、バッドトリップの反対になります。


なお、余談ですが、神秘行の中には、上記の特性を利用して、夢を利用する修行法が、あります。
睡眠は誰でも毎日やるもので、かつ夢は誰でも見るような内的世界です。

要するに訓練せずとも、デフォルトで、深い意識に行けるのです。

 

この仕組を利用して、チベット密教や西洋魔術など、洋の東西を問わずに、夢を使って、内的世界に行く術があります。
これも、いつかご紹介しましょう。

また、死ぬ瞬間というのは、上記した様に、脳内麻薬が出て、誰でも修行したようになるため、夢と同じく、これまた修行に使えます。

誰でも修行者のような深い瞑想の境地に行けるのですから。

 

死ねば、誰でも仏になるというのは、この意味であながち間違いはありません。

あるいは、生きている者は、誰でもたどり着けない境地にまで、脳内麻薬が出ていて深い瞑想の境地に入っている可能性もあります。

 

当たり前ですが、生きている修行者は、釈迦やイエスを含めて、所詮は生きて普通に生活出来るレベルの、脳内麻薬しか出ていないからです。

脳細胞が完全に壊れて、不可逆的な状態にまで脳を追い込んでいないからです。

 

どんな凡夫や悪人でも、死ぬ瞬間は、釈迦やイエスを超えるのです。

死ねば誰でも仏になるのです。

おお、浄土真宗の親鸞の悪人正機に繋がりました。

 

まあ、別に死ぬ瞬間は誰でもという条件なので、別に悪人に限ったことではありませんが、それでも、修行した聖者じゃないものでもという大乗的な平等観点はクリアしてます。

今まで、念仏インスタンス修行法と、ヘイトスピーチをしていましたが、ここで浄土系の念仏教がリンクしてきて、株価がアップです。

 

日本人の死ねばみんな仏という、感性は正しかったのですねえ。

いや、本当にこのブログは、見えない上からの存在が勝手に書いてますね。

考えもしなかったことが、ポンポン出てきますし。

※単に、文章にアウトプットすることで、脳内の情報が整理されているだけの可能性もありますが。


で、死ぬ際の修行法とsちえは、チベット密教の、死者の書が有名です。

これは、死ぬ瞬間で、間違ってバッドトリップしないように、誘導したり、事前に自己訓練したりするという理屈です。
これも、夢と同じくいずれご紹介しましょうか。
皆さんが、死後(死ぬ瞬間)に迷わないように、万が一のために、やっておきましょう。

 

 

 

【現実なんてララーラーララララーラー♪】


で、こうした内的世界のリアリティがある、仮想空間があることは、わかりました。

これは、人間のデフォルトのプレインストールの機能であり、なぜか仕様で存在しています。


で、だから何なの?
うちらに何か関係あるの?
という、皆様のお声が聞こえてきます(幻聴)。

 

軍靴の音が!ぐんくつのおとが、聞こえてくる!(朝日新聞風の投書欄)


実は、インド哲学とその支流では、もう一歩踏み込んだ説があるのです。


要するに、一般に我々がこのリアルと思っている外的世界。
それに加えて、特殊な人や状況で認識出来る、上記したようなリアルな内的世界があるというのが上記の話でした。

しかし、後者を体験したインド人は、こう思いました。
ひょっとして、前者の
外的世界て、存在しない(もしくは価値が低い)んじゃないのか?と。

このヤク中の、妄想は一見ただの、電波な戯言に聞こえます。
※実際、そうなのですが。

しかし、宗教学的には実は、相当深刻な問題が内包されています。
以前、指摘したように、基本、宗教と言うのは、「この世」に価値を置いてません。
他宗教に比較して、論理的だと言われている仏教ですら、この世は、諸行無常・諸法無我・一切皆苦の穢土ワールドの認識なのです。

 

大抵の宗教は、神の完璧な世界からの、離脱というか罰ゲームというか、「下界に落とされた」とか、そのくらいの、認識です。
リアル世界に対しての、ヘイトスピーチが半端ではありません。


明日から本気を出す・・・!

 

今俺らがいるこの世界は仮・・・!
本物の自分は違う・・・!
もっと光り輝く世界がある・・・!



まるで、ダメな人間の逃避心理のような、思考回路ですが、実はこれが宗教の実相です。
今の世界を認めないのです。
ひたすら天国の「イデア」を求めるのです。
これは、一神教だろうが、仏教だろうが同じ構造です。

人類の歴史的には、文明が出てきた以降の歴史として、次の宗教史の歴史があります。
地球が氷河期になって農作物や自然の恵みが薄れた頃に、枢軸時代(ヤスパース)の宗教が出てきたのです。
これらは、我々が一般に考えている上記したような宗教的な思想です。
つまり、この世はダメで、天国は素晴らしいとする思想ですね。

それ以前の宗教は、要するに多神教で、自然崇拝の地母神信仰です。
日本の神道を見てもわかるとおり、基本、こういう宗教は、あの世の素晴らしさを説きません。
昔のエジプト神話やバラモン神話を見てもわかるとおり、死後の世界は、基本、地下のイメージで、暗いです。
支配者やバラモンは今と同じく、王様やバラモンになるくらいの認識で、後の民草はどうでもいい認識です。
何か良くわからない黄泉の世界に行くくらいの認識ですね。

日本神話におけるこの死後の世界のどうでもいい放置プレイは、
日本神道の裏面史である国津神の系譜
にも書きましたので参照までに。
※途中で放置して、エタ―になってますが。

自然環境が宗教に関わってくる理由は、自然が豊かな時代は、自然の神に感謝して、歌って踊って楽しく暮らしていけたからです。
狩猟時代の労働時間は、一日数時間程度で、後は、どぶろく酒とか飲みながら、日々愉快に暮らしていたのです。


何しろ、山に行けば、木の実も、肉(動物)もとれる。
川や海に行けば魚はいくらでも取れる。
要するに聖書のエデンの地だったわけです。

ところが、地球が氷河期になってきたり、農耕が始まって、奴隷労働が始まると、人生は途端にきつくなってきます。
いつの世も、宮仕え(サラリーマン)はろくでもないものですが、農耕や身分制度が始まり、おまけに氷河期(比喩ではなくて物理的な)とくれば、世界に絶望してもおかしくはありません。

 

現代だって、ストレスが溜まったお疲れのサラリーマンが、日々、朝の通勤ラッシュ時の、電車をストップさせてダイヤルを乱しています。
エデンから追放された人類は、日々、労働に苦しまなければ生きていけなくなったのです。

こんな世界は糞である・・・!
民が救われる理想郷が・・・!
ガンダーラがあるはず・・・・!

需要は供給を生み出す。
これは、錬金術(資本主義)における等価交換(マーケット)の法則です。
リアル社会が糞で、理想イデア世界が真実であるというのが、枢軸時代以降の人類の宗教の流行です。
この大きな流れの中に、先ほどの「この世は幻影だ」と言う物があるのです。

この世は、実際、ろくでもないことばかりです。
この平和な日本ですら、つい前世紀には、弱き民が米軍の無差別爆撃にさらされたり、日本政府に徴兵されて、南国の地獄に送られていました。

 

これに、瞑想やドラッグなどが、拍車をかけます。
そもそも、修行僧の生活環境が、世俗から離れた象牙の塔です。
高度な論理を弄び、実利から遊離した哲学が生まれるのは、当たり前です。

実際に、変性意識状態では、認識の拡大、万能感、世界の変容などが当たり前のように起きます。
感覚や感情や衝動なども、現実世界とは違い、(脳や神経に直接操作するため)格段に凄まじいものです。


ぬるい日常生活よりも、こちらの方が真実だと考えるのは、無理からぬことです。
内的世界のトリップはそれだけの魔力があります。
※これに引き込まれたのを、禅では魔境と呼びます。そうして、果ては精神病院行きです。

 

 

 

 

【唯脳論】



では、これらの「現実は幻影論」は、それこそ幻なのか?
インド人のヤク中の妄想に過ぎないのか?

これに関しては、現代人でも納得出来る(出来るのか?)、ロジックとしては、2,3個くらいは無いこともありません。

一つ目としては、唯心論、唯識論というか唯脳論ですね。

現代人の我々は、意識が、脳の機能によるものと知っています。
先ほどの例にあげた夢の話のように、目をつぶっていても、夢の中でリアリティを持って活動できることを経験上体験しています。
早い話が、脳に電極をつけて、仮想空間の中で生活しているマトリックスのような世界は、SFの世界では無いことを知っているのです。

極端な話、実際、体がなくても、脳髄だけでも、仮想空間の中で生きていけないことはありません。
脳髄や管理機器という、物質的な外部が存在することはまだ中途半端ですが、この事実だけでも相当な話です。
我々が外部の世界が無くても、脳に直接情報を送れば、仮想空間でリアリティがあるように生きていけるのです。

逆に、今の我々の状態が、実質、そういう脳髄だけで脳内世界にいるという可能性は否定できません。

 

何しろ、脳が世界を認識している以上、外界が無くても、情報だけが脳内に入れば、五感は脳内では存在しているのです。

嗅覚を担当する脳の視野に、電気が流れれば、臭いは発生します。

視覚だろうが、触覚だろうが、味覚だろうが同じです。


なにせ、今の段階でも、軍事技術でも何でもなく、面の世界で、盲人用に、視神経から外の情報を送れば、普通に外の世界が見える技術は実用化されています。
聴覚や嗅覚、味覚や触覚だってそうです。

 

繰り返しますが、外部の世界がなくても、脳内情報があれば、人間は世界を認識してしまうのです。
これは、古代からの現実世界の負け犬たちの、「世界は幻影説」に相当近づいている証拠です。



【認識フィルター】


二つ目としては、認識のフィルターが世界を作る説です。


これも、現代人はわかりやすい話です。
我々現代人は、価値観やイデオロギーを確固たる信念を持たない世代です。
一つの信念を持つことに疑問を感じてしまうのです。
歴史的に、悲惨な事例を多く知っている我々は、相対的な価値観が基本です。

西洋哲学でも、経験論と合理論を止揚した認識論をカントがまとめましたが、認識の色眼鏡が、我々人間には、デフォルトで、内包されています。

具体的に言えば、時間と空間のフィルターです。

我々人間が、世界を見るときには、三次元の空間と時間軸で物事を把握します。

逆に言えば、世界自体は、人間が認識出来ない次元で存在している可能性があるのです。

こうしたデフォルトのフィルターでなくても、上記したような価値観フィルターは、我々は、育ちや環境により、どうしても、備え付けざるを得ません。

 

世界を見るときに、この価値観があるか無いかで、世界は、相当違うように見えます。
レイヤを落とした例で言うと、恋の病に冒された男女は、すでに違う世界に住んでいます。
さっきも書いたように、基本、恋愛とは、脳内麻薬(ドーパミンとか)でラリってるヤク中患者ですので、世界が二人を祝福しているかの羽化登仙の認識です。

 

まあ、傍から見れば、ただの馬鹿なのですが、彼ら自身は相当本気で、そう認識しています。
下半身の性欲から発生した感情を、真実の愛と呼び、神聖視するのです。

たかが、恋愛如きで、ナイスボードの刃傷沙汰になることも、古今東西枚挙に暇がありません。

※豊河は、全国の善男善女の、恋愛を応援しています。(とってつけたようなフォロー)

恋愛は、わかりやすい例ですが、全ての人間一人ひとりに、別個の世界があると思って言いでしょう。
それは、その人の今までの環境や資質に応じて、違う世界があるということです。
もちろん、外的世界は同じですが、その解釈やフィルターが違うため別の世界に見えるということです。

この手の話は、自己啓発や心理セミナーでおなじみの話ですので、現代人ならば一度や二度は聞いたことがあるでしょう。
基本的に、大抵のロジックとしては、今までの自分は小さな殻に入ってる自分で、思い込みに過ぎないという話から始まります。

 

自己啓発セミナーでは、これを、集団で隔離してやります。

やる気の無い凡人を、高い金に見合う徹底したポジティブ思考に、洗脳してくれます。

元々、モチベーションを上げるための技術なので、現代資本主義では有益な結果です。
※まあ、その代わりに、セミナーの自発的なネズミ講営業をさせられるようですが。

上記したような様々なこれらは、結局のところ、脳内の麻薬を、どう出すかの問題です。
恋愛だろうが、自己啓発セミナーだろうが、瞑想だろうが、結局は、そこに行き着きます。
所詮は、唯脳論なのです。

外部では無いということです。

自分の脳をいかにして騙すかという話です。

自分の認識において、目を瞑った内的ワールドであろうが、目を開けた世界であろうが、結局は脳が認識します。
イカやタコを、我々日本人は、美味しそうな食べ物として見ますが、その食文化がない文化圏の人は見たくも無い化け物でしょう。

 

世界を解釈するのは、自分の認識なのです。
だから、世界は無い。幻影である。
結局のところ、こんなロジックですね。

まあ、今まで論じたように、あながちこれらは、間違っていません。
陰徳を積むのも、パワスポに行くのも、神仏を拝むのも、脳内の自己認識を変えるためです。
その結果、プラシーボ効果(これも重要ですね)が上手く働き、良い人生に自分を誘導していく。
結果として、開運出来るというルートです。

悪事をして、罪悪感を自罰感を持っていると、意識的無意識的にも、自分を罰する方向に導き安いのです。
つまり、因果応報の原則も、結局、自分自身の中にあるということですね。

 

あの世も極楽も天国も地獄も、因果応報すらも自分の中にある。
これが唯脳論です。

 

もちろん、その自分自身を作るのも、外界の環境などですが、卵と鶏の関係です。

環境が個人を形成しますが、同時に、個人も環境を生成します。
これが、負のループを循環しているのを、不幸と呼び、いいループを形成しているのを、幸福と呼びます。

このループを修正するために行うのが開運の行動です。
環境と個人を、なんとかどうにかして、編集するのです。
そのために、陰徳やら、パワスポやら行くのです。




【ガチセツワールド】



三つ目はガチで外界の世界が無い、一切は幻影だよ説です。

これは、もう相当コアな宗教の世界です。
あまり、一般受けしないので、自己啓発セミナー系は、前述の二つ目の説レベルです。

まあ、当たり前ですね。
理由は、商売にならないからです。

 

どう商売にならないかは、説明不要と思いますが、世界が幻影だからと言って、だからどうしたという話になるからです。
ビジネスとして、世界は、最終的にハッピーでならなければ、ビジネスになりません。

 

軍事でも経営でも末端の兵士を、一心不乱に稼働させるための目的なのですから。

旧日本軍が、ヒロポンを普及させたのも、これと同じです。

ヒロポンも自己啓発も、脳内麻薬を出すためのスキルです。
モチベーションを高めさせるのが目的なのに、世界が無では困るのです。


仏教ですら、当初の、解脱後の自己消滅というある意味、世界が幻影説に近い教義が、念仏を唱えると、極楽浄土に行けるよ説になりました。
そうしなければ、愚民はついてこないのです。
実際、日本の仏教マーケットは念仏と題目がツートップです。

そして、世界では、信じれば救われるよ形式の、これまた天国期待教義の一神教が、10億単位で信者が存在しています。
まあ、コアな信者しか係わり合いの無い、教義がこの世界は幻影だよ説です。

教義的には、リアルに世界が無いよ派と、世界は言葉の解釈だよ派があります。
※ちなみに、この~派は、私が今、適当にネーミング区分しているだけですので、そんな名前の派はありません。

さて、まあ、ここら辺の説明はグダグダとまた、宗教哲学の話になるので、別の機会にしますが、我々の文化圏でよく知っている般若心経とかもこの類です。
大乗仏教は、釈迦没後の仏教初期の、説一切有部などの部派仏教の常住論を論破するために、進化したので、「空」の論理は、ここらへんは専門です。


「親という物は存在しない。親は子供がいて初めて親であると言える。子供という他者に依存する概念であって、以下略」
とか、まあ、グダグダと、インド人が大好きな哲学論が延々と続きます。
いずれ、まとめてご紹介しますが、そんなのがあるとだけ、ご認識ください。

我々の開運に関係ありそうなのは、「空であるとか幻影であるとかのロジックやシミュレーション」で、煩悩の消去(改過)に使えることくらいでしょうか?
しかし、以前にも書いたように、この「空」の論理が、逆に道徳性の縛りを相対化してしまい、カルトの暴走を起こしてしまうという事例があることは、覚えておく必要があります。

 

どんな物も、陰陽の二面性があります。

裏と表があるのです。

刃物を、包丁に使うか、人殺しのナイフに使うかは人間次第です。

理論という概念的存在も同じです。