【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
前回、応尚書(尚書は今の総理大臣)の鬼のNTR展開を文書偽造で防いだ話でした。
その後の、話です。
公(応尚書のこと)は、またある日、鬼たちの会談を聞いた。
鬼曰く、
「我まさに、夫に代わって嫁をゲット出来たのに、この秀才が計画をぶち壊しにしてしまった。
こんなことがあっていいものだろうか?いやない(反語)」
他の鬼がこれに答えて曰く、
「なぜ君は、そこまでされたのに、復讐しないのか?普通に禍を与えて報復すればよいではないか?」と。
さらに鬼が答えて曰く、
「そうしたいのはやまやまだが、上帝(天帝)が、この人の心の好さを以って、陰徳尚書と命名しているのだ。
吾輩程度が、どうしようというのだ?何も出来やしない」
上記の話を聞いて、公は、ますます努力精進して、善行は日に日に増大して行き、徳はますます厚きを加えていった。
飢饉の際には自分の食料を寄付して、親戚に急難あれば細かに助け、横逆な振る舞いをされたならば、自分に非が無いか深く反省して、自らの不徳を責め、相手の非道や罵詈雑言を快く受け入れた。
このような徳者であったため、その子孫は、未だに科挙試験に登第するものは累々として続いている。
上帝はまず何はともあれ、この鬼どもを取り締まれよと言いたい。
成りすましで家に入ろうとする犯罪者をなぜ放置しているのか?
戦後の○○人と同じような連中ではないだろうか?
支那の古代からの思想では、基本的に現世システムが最高だという認識があります。
要するに中央官僚システムですが、確かに科挙という(実際は勉強できる環境の金持ちしか受からない)システムは、近代国家に先駆ける平等的な優れたシステムでした。
支那人の発想は、このような権力システムが頭にあるため、死後の世界でも、似たようなシステムがあるものだと投影しています。
それが上帝(天帝)を頂点とした霊界の官僚システムです。
この官僚たちは仙人で、一般に我々がイメージする深山幽谷に住んでいる仙人とは違い、せっかく浮世の俗世を離れて、修行して仙人になったのにも関わらず、なぜか官僚になっています。
要するに、表社会の科挙システムというエリートコースへのコンプレックスが投影されているということです。
要するに、道士や仙人は、建前では、美食美衣美女の肉欲を離れて、地位名誉権勢を捨てた寂然無想のタオの境地を気取っていても、心の底では、
「高学歴・・・!
欲しかった・・・!
科挙合格・・・!
心の底から・・・欲しかった・・・・!
無念・・・・!」
「嗚呼・・・ッ!
届かぬ・・・!
失敗した人生・・・!
だが・・・やり直せる・・・!
来世で・・・!」
と、表のエリートコースへの嫉妬心が溢れんばかりなのでしょう。
そのため、現世では官僚になれなかったが、
来世では俺達が主役・・・!
一発逆転・・・・!
どん底からの起死回生の秘策・・・!
とばかりに、幽冥界では、皇帝ならぬ上帝の官僚として、自分たちが愚民を支配するエリートコースへの妄執を投影しているということです。
ここらへんの、コンプレックス投影は、古今東西かなり普遍的に存在するもので、特にニーチェは、キリスト教の成り立ち自体を、弱者の現世の強者へのコンプレックス宗教だと喝破しています。
日本でも事情は同じで、神道でもこの手のドロドロ敗者復活劇の発想があり、表の天照大神を頂点とする天津神の皇室イコール伊勢神宮に対して、国譲りの敗者の出雲大社イコール国津神の負け組のルサンチマン構図が見られます。
内容もやはり、同じようなロジックで、負け組の出雲大社(大国主命)が、幽冥界の支配者とう設定です。
現世は天照の皇室が支配しているけど、死後は、俺達が主役だ!と教学を構築しています。
なお、ここらへんの話は、途中で放置エターしてある、
でテーマにしてあります。
要するに、古今東西の人間の思考パターンは同じようなものだということです。
人間は凝りもせず同じことをするという、シャケの人生と同じだと前々から話題にしている話にやはり通じます。
この「来世へのコンプレックス投影の術」は、一見負け組の哀れな寝言に見えますが、実は結構な発展性を秘めています。
そもそも、この負け組コンプレックス宗教の、キリスト教や浄土系仏教が、世界や日本の宗教市場において、圧倒的シェアを占めていることを考えてみても、その無限の可能性が見られます。
しかし、考えてみればこれは、当たり前の話で、世の中は、勝ち組よりも負け組の方が圧倒的に多いからです。
世界そのものは昔からろくでもない穢土で、今ですらこの地球上で10億単位で飲水にすら事欠く地獄です。
日本のようなこの20年間で、貧しくなった国ですら、上位ランクに入るのですから、世界のろくでもなさが伺えます。
つまり、何が言いたいかというと、宗教そのものは、弱者マーケティングに徹した方が、圧倒的に効率が良いわけです。
弱者マーケティングと言うと、貧困ビジネスのようで聞こえは悪いのですが、良く言えば、元々、弱者を救済するのが宗教の代名詞なわけです。
今の権威のキリスト教ですら、成立当初は、カルト扱いされていて、対象マーケティングも、弱者が カモ 救済対象でした。
当時の対抗宗教や官憲からは、
「あの連中は女子供や貧困者など頭の弱い連中を食い物にする非道な邪教」
と言うのが、キリスト教の偽ざる評価でした。
しかし、考えてみれば、これは世人の苦しみを救う宗教としては当然の話で、ぶっちゃけ金持ちは幸せなのでどうでもいいわけです。
※金持ちには金持ちの苦しみがありますが。こう言ってはなんですが贅沢な悩みと言えます。
圧倒的に不幸な弱者の大衆の方が世界には多いわけですから、こっちをマーケットとするのは当然なわけです。
戦後、創価などの新興宗教が信者を激増させたのも、貧病争に苦しむ戦後の大衆をターゲットにしたからです。
既存宗教は檀家制度に胡座をかいてこの流れに乗り遅れたと言えましょう。
もちろん、高度経済成長に伴って、マーケットも代わってきており、豊かになってきたころには、逆にこの手の新興宗教は拡大が止まって、代わりに、豊かになった中層階級のニーズ(貧病争ではなくて自分探しや超能力など)に合わせた新新宗教が台頭してきました。
※オウムや幸福の科学などですね。
しかし、今はさらに時代が代わって、経済成長が見込めない時代になり、戦争や天変地異(あと原発)という人間が大量死し貧困が激増する時代になってきました。
そうすると、また来世に期待せざるを得ない宗教の時代が来るのではないかと思います。
どうあがいても、現世に期待を持てない時代にはあの世に期待するしか方法が無いからです。
鎌倉時代の庶民が念仏に走って、阿弥陀如来の極楽浄土に逃避したようにです。
ちなみに、余談ですが、すでにその予兆は出ています。
宗教は世相として、あらゆるジャンルに波及しますが、文芸の業界では、すでにこのあの世期待型の宗教の亜種が出現しています。
即ち、ラノベの異世界転生物です。
要するに、現世ではパッとしない引きこもりの主人公が、異世界で魔法やチート付与や現代文明知識で、中世レベルの剣と魔法の世界で無双するというジャンルです。
ここ数年、増大してきたこのジャンルは上記の時代の変化と無縁では無いでしょう。
あの世型の宗教コンテンツは、この後もこれらの予兆群の後に満を持して、この日本において強大な存在が浮上してくると思います。
ちなみに、政治の世界では、憲法九条という念仏が、戦後ずーっと支配してきました。
GHQの戦後統治のこの宗教が、思いの外、日本人の他力本願思考に適合してもはや国教に近い存在となりました。
やはり、日本人の集合無意識の深層にはこの来世期待の他力本願型の言霊宗教が、その巨大な図体を以って屹立しているのでしょう。
さて、これらの宗教は、基本、来世期待型です。
来世に祈るのも保険としては悪くはありません。
が、現世と来世、両方に保険として適用出来るものとしての陰徳の形成が土台にあれば、もはや隙を生じぬ二段構えです。
そもそも、悪いことをしてもイエスや念仏で極楽浄土に行けるというのは宗教的には正しいのでしょうが、万が一駄目だった場合のリスクが大きいわけです。
陰徳を積んで何もしなくても極楽浄土に行けるようにして、さらに宗教で来世の果報を加えれば、その確率は高まるばかりです。
どうせ何をどうしようが、我々は、あと100年以内に死にます。
死ぬ前に慌てて改心しても、手遅れの可能性にならないよう、保険はしっかりとかけておきましょう。