『論語』岩波文庫:孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物。漢文の授業は好きだったが、「不患寡而患不均 不患貧而患不安(『論語・季氏第十六』)は教員になってから出会った。為政者への諫めである。富の不平等をなくすこと、人民一人ひとりの生活が重要である。政治家諸氏には贈りたい。

ルソー『人間不平等起源論』岩波文庫:人間社会における不平等の起源を説くルソーの代表的著作。古今東西を問わず「均しからざる」の克服は人間社会の課題だ。ルソーはその起源を「所有」に求めて人間の不幸のもととしたが、現代社会は99%の富を1%の富裕層が所有するとまでいわれるほどの、未だかつてない不平等を出現させてしまった。私的所有の自由はいまや暴力の次元に達した。

 

テーマ16 土地の私有が武士を生み出した

 

【課題提起】ここまで古代国家の成立過程を話してきましたが、次に考えたいのは「武士」です。古代の軍事を担ったのは律令制の兵役に従った庶民でした。いわば「国民皆兵」でした。庶民は軍団に組み込まれて貴族の武官に率いられ警備や戦闘にあたりました。では平安時代の終わりになって登場する「武士」とは一体何ものなのでしょうか。

 武士は、鎌倉幕府の成立から江戸幕府の崩壊まで、およそ700年間にわたって日本の歴史を牽引した中心勢力です。武士は戦闘が家業です。武士と農民の境目は曖昧ですが、一族郎党で武士団をつくって所領を守り増やすために武力闘争をおこなう集団です。その武力集団がどうして長きにわたって支配者として君臨したのでしょうか。武士の正体を探ってみましょう。

 武士が登場する10世紀はじめ、律令体制は大きく変質していました。律令制の原理は公地公民です。土地や人民の私有を認めない社会でした。公地は口分田として公民に均等に貸し与えて(班田収受法)、暮らしを保障し、納税と兵役の義務をはたす社会でした。

 この仕組みは中国の均田制を模倣したものです。均田制とは土地を耕作者に均等に分与する制度です。土地の私有化を抑え、税収の確保が目的でしたが、中国政治の理想像が反映しています。孔子の言行を記録した『論語』には次の一節があります。

不患寡而患不均 不患貧而患不安(『論語・季氏第十六』)

「寡(すくな)きを患(うれ)えずして、均(ひと)しからざるを患う。貧(まず)しきを患えずして、安(やす)からざるを患う」。

孔子によれば、政治(為政者)に求められるものは、経済の豊かさではなく、人民の平等と安心だというのです。経済成長を重んじて、格差や不安よりも豊かさを求めるいまの政治思想とは大きく違います。

 しかし中国から学んだ班田収授法は大宝律令の完成後まもなくして破綻を来たします。租調庸の税負担が重くのしかかり、戸籍をいつわる者や土地をすてて逃亡する者が続出、口分田は荒廃し、税収は不安定になりました。窮した政府はみずから原則を崩して開墾した土地の私有を認め、耕地を増やして税収を安定させようとしたのです。

 8世紀前半、百万町歩開墾計画、三世一身法、墾田永年私財法と勅が出され、開墾が奨励されました。貴族や寺院、一部の有力農民など資力のある者たちは競って開墾に取り組み、私有地を増やしていきました。豊富な稲穀は次の開墾につぎ込まれ、富はふくれ上がりました。開墾には困窮した農民が使われ、富豪層のもとに従属化していきました。

 土地の所有をめぐる新たな争いがはじまりました。公地公民を原則とする律令制はそもそも土地の私的所有を認めていません。天皇の詔があったとしても土地を守るのは実力でした。新たな仕組みの社会が求められていました。

【意見交換】律令制の原理は土地の公平な分配と、納税と兵役の公平な負担です。目ざされたのは「均しき」と「安き」の実現です。しかし人口増によって口分田は不足し、低い生産力に加えて自然災害や疫病が頻発しました。都の造営や征服戦争も重なって、人民は塗炭の苦しみをなめ、国家財政は危機に陥りました。この対策として土地の私有を認めたことは社会構造の大変革をもたらしました。どんな変革をもたらしたのでしょうか。

 図(左下)をみてください。縦軸と横軸はそれぞれ平等と安心を表します。矢印の方向に向かって度合いが強まります。これに従えば中国の政治の理想は左上マスの◎です。日本の公地公民の社会もこれを目指すものでした。

 では開墾による土地の私有を認めることになった奈良時代から平安時代にかけて、社会の現実は図の4つのマスのどこに移ったと思いますか。またあなたが理想とする政治の姿は図のマスのどこになりますか。図(右下)に◎○印を書き込んで、それぞれその理由を意見交換してみましょう。

意見交換(             )

            

【コメント】みなさんの間ではどんな意見交換がなされたのでしょうか。ぼくは次のように印を書き込みました。

 ◎は右下のマスの中央です。もっと下端でもよいのですが、左上から右下のマスに移動したことは確かです。「寡き」と「貧しき」をうれえるあまり、「均しき」と「安き」はないがしろにされたからです。力あるものはそのもてる権威や権力を用いて土地と富を集中させ、貧富の差を拡大させて人びとを不安に陥れていきました。不安は貧しい者ばかりでなく富める者にも及びました。かれらの不安は、いつ奪われるかわからない富への執着です。この不安が暴力への依存、武力の行使に結びつくことも容易に想像がつきます。

 理想の○は迷いました。「均し」はマキシムを避けました。為政者が極限的に均質な社会を目ざすのは返って危険だからです。逆に安心はマキシムにしました。世界を見わたせば、日々爆弾に怯える地域がある一方で、平穏のうちに生涯を送ることができる地域もあります。ある地域で保障される平穏がたまたま生まれた地域の違いだけで保障されないのは放置されるべきではないと思うのですが、どうでしょうか。

 こうした問題に正解はありません。互いの考えを意見交換して、見えなかったこと、気づかなかったことから学ぶことを大事にしてください。

 次の表は複雑な土地私有化の進展をまとめたものです。「均し」の理想がいかに「均しからざる」の現実に向かっていったのか、時間が許せば、丁寧に読みとってほしいのですが、ここでは大まかな流れだけを確認しておきます。

 私有地となった土地は荘園とよびます。なかでも広大な荘園を所有したのは藤原氏のような大貴族、興福寺や延暦寺のような大寺院でした。これらの荘園には不輸(国税の免除)・不入(役人の立入禁止)の特権がありました。このため地方の有力層や豪族は自力で開拓した荘園を貴族や寺院に寄進しました。政府の管理や納税を免れるためです。こうして中央の貴族や寺院のもとには莫大な富が集中しました。一方、王朝政府も広大な公領を有しており、各国に派遣された国司が在地の郡司や有力農民を使って国税(官物)を取り立てました。日本の土地は、平安時代の終わりには、政府の管理が及ぶ公領と、貴族や寺院が所有する荘園に二分されました。農民たちはそのいずれかに隷属して農業生産に励みました。

 公地公民の原則が崩れて土地の私有化がすすむと、地方では土地の境界や水利をめぐる争いが日常化し、流民となった人びとの中には山賊や海賊となって強盗行為が頻発しました。治安の悪化は年貢や官物の運搬にも支障をきたしました。しかし治安の維持にあたる律令制下における軍団制は崩壊していました。政府にとっても人民にとっても負担が重すぎたのです。

 国民皆兵の原則を崩して軍制の大改革をおこなったのは桓武天皇です。庶民の兵士からなる軍団を廃して、かわりに武芸に秀でた郡司や有力農民の子弟を健児(こんでい)として地方の治安維持にあたらせました。

 しかし庶民の兵役負担を減らし、軍隊を少数精鋭化しても律令制は立ち直りませんでした。地方の盗賊集団の行動は公権力に対する反抗の様相を呈してきました。

 この状況に対応して王朝政府がうった手は軍事の地方委譲でした。各国の国司が国内の有力者から兵士を徴発し、国衙に駐屯させる制度です。国衙軍は、国司の下で治安の維持や防衛に当たりましたが、国司の中には地方豪族と結びついて王朝政府から離反する動きも現れました。しかも土着した国司の子孫、郡司や有力農民は自分たちの土地や権利を守るために自ら武装していきました。軍事の地方委譲は王朝政府が軍事力を失うことであり、武士の台頭を促しました。

 その象徴的な出来事が東国と西国で同時期に起きた平将門の乱と藤原純友の乱(935~941)です。王朝政府は反乱の鎮圧に功績をあげた「兵(つわもの)」を官職に召し上げ、「侍(さむらい)」として宮廷の警備や警護につかせたり、追捕使や押領使に任じて地方の治安維持を当たらせました。武士は王朝政府を支える欠かせない存在となったのです。土地の所有が武力の時代を到来させました。

 土地の所有についてフランスの思想家ルソーはこう言っています。

 「ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会[国家]の真の創立者であった。杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?」(ルソー『人間不平等起源論』岩波文庫より)

 わたしたちの社会は「所有」によって成り立っています。子どものころ、学用品には名前を書くように先生や親から言われました。自分のものと他人のもの、その区別をつけるのが所有です。古代の人びとも鍋釜は個人の所有物でした。しかし土地のような人間の暮らしに欠かせない自然物の所有は摂理にかなったものでしょうか。そこから不要な戦争や犯罪や殺人、悲惨と恐怖が生まれたとルソーは喝破しました。

 土地を所有する自由が武士を生み出しました。武士は土地を所有する富者の下僕となって暴力の最前線に立ち、やがて主人の地位につきました。武士とは何ものか、さらに探究を深めていきます。