名車列伝、今回は小さなスーパーカーを目指した、いすゞのピアッツァを取り上げます。
<「手ごろなスーパーカー」というコンセプト>
時は1977年、オイルショックを乗り越えた日本全国が、ランボルギーニ・カウンタックを筆頭としたかつてないスーパーカー・ブームに沸いていたころ、ジェルジェット・ジウジアーロの良き友人でもあった宮川秀行氏は、ある自動車評論家との対話のなかで「スーパーカー・ブームで興味を抱いた子供たちの興味を持続させてやりたい」という言葉をヒントに日本の国情に適した小型スーパーカー(SSC:SmallSuperCar)という企画をリサーチしはじめていました。
SSCは、コンパクトで実用性が高く、しかもスーパーカーとしての尊厳を持ち得る車であることを主眼に置きリサーチしていき、以前ジウジアーロと共に開発に携わった117クーペの後継モデルについて語り合い、この企画をいすゞ自動車に打診したのが1977年9月、フランクフルトショーでジウジアーロといすゞの首脳陣がこの企画について話をする機会を得ることができました。
その中で宮川氏が持ち込んだSSCに興味を示したいすゞ首脳部ではあるものの、開発に関しては簡単にOKを出ことができず、117クーペ後継車のリサーチということでプロジェクトを進めることとなり、ジェミニのシャシーとエンジンを利用したコンセプトモデルを、1979年の3月に行われるジュネーブショーに展示することでいすゞと合意。合意したのが78年の5月という、実に10ヶ月という短期間の間にSSCを形にすることが条件でした。
なお、時間以外にいすゞからイタル・デザインに提示した条件は・・・
・ベースはジェミニのエンジンとシャシーを利用すること。
・話題となるような斬新なスタイリングであること。
・2+2プラスアルファの居住性と実用的なラゲッジルームを備えること。
・量産化のできるスポーツ・ワゴン的性格の位置づけ。
この4点を抑えていればほかは自由というもので、当時いすゞは、自社の企画で具体的構想とイメージの設定、デザインスタディを終えたうえでジウジアーロの力を引き出す醸造方式の提携とコメントしていたが、実際は宮川氏の働きかけがなかったら、どうなっていたか定かではありません。
<クローバーのエース(二代目)>
ほどなくして、ジウジアーロからアイデア・レンダリングがいすゞ送られました。
そのレンダリングは、当時ジウジアーロ一連のコンセプトカー「アッソ・シリーズ」のスケッチでした。
↑アッソ・ディ・クワドリ(スペードのA) ↑アッソ・ディ・ピッケ(ダイヤのA)
その後の「アウディ・クワトロ」にイメージが すでにピアッツァの基礎理論が見えつつあり
継承されていく。 これが元ではないかと推測します。
この「アッソ」シリーズとは「快適な居住空間と優れた空力的造詣の融合」を試みたシリーズに使われ、これまでにアウディのコンポーネントを使った「アッソ・ディ・ピッケ:ダイヤのA」と、BMWのコンポーネントを使った「アッソ・ディ・クワドリ:スペードのA」が世に出されていました。
アッソシリーズの特徴は、鋭いウエッジ・シェイプと滑らかな形状のフラッシュ・サ―フェス・ボディ外皮を用いた3ドアハッチバッククーペでありながら、大人4人が乗れる居住性を併せ持つもので、早速いすゞはこれから発売する予定のジェミニZZ(DOHCエンジン搭載したジェミニのトップモデル)をイタリアに空輸、このコンポーネントにいすゞ専用「アッソ」が組み込まれることとなりました。
そして、いすゞのアッソである「アッソ・ディ・フィオーリ:クラブのA」がジュネーブ・ショーのイタルデザインブースに運びこまれたのは、プレス・デイ当日という突貫工事で、それゆえに計器やスイッチはダミーであったものの、プレスデイ当日にアッソ・ディ・フィオーリが公開されると一気に評判を呼び、市販について質問をする人が多かったそうです。
余談ですが、この「アッソ・ディ・フィオーリ」は二代目で、この車につける前に別の車に「アッソ・ディ・フィオーリ」がつけられる予定だったそうです。
その車がこれ・・・ヒュンダイ・ポニー・クーペ
ヒュンダイ・ポニー・クーペ
しかし、この車が「アッソ」を名乗る前に、ヒュンダイ側で「ヒュンダイ・ポニー・クーペ」の名前を先行で出してしまい「アッソ・ディ・フィオーリ」の名前はお蔵入りになったそうです。
<アッソから720へ>
いすゞとイタルデザインの幹部が顔を揃えた記者会見では、市販化についての質問が各方面から集中し、イタルデザインは「コンセプト・カーとしてではなく、実際の市販を前提としたものとして考えている」とコメントし、いすゞ内部ではジュネーブ・ショーでの高い評判により量産化が決定しました。
ショーへの出品と同時進行でプロトタイプの見直しが始まり、日本市場での販売以外に北米市場への販売も想定するため、そのまま生産するわけにはいかないと判断され、アッソのデザインを極力壊さずに生産車にフィードバックしていく、コードネーム「SSW720」が進行していきました。
その再検討の中、アッソと720はすべての外板にいたるところまで見直しが入り、アッソと720は完全なリモデリングとなってしまいました。
余談ですが、ジウジアーロといすゞが検討を重ねる中、5月に始まったローマ自動車ショーに展示されたアッソが、コンクール・ド・エレガンスで、グッド・デザインに対する「ぺガソ賞」を獲得、これは117クーペも66年に受賞した賞で、このデザインのインパクトの大きさが伺われます。
<そして、ピアッツァに・・・>
1981年1月末に「いすゞ・ピアッツァ」のネーミングで、型式認定公示され、これまで「アッソ」「リ・ディ・フィオーリ」「パティオ」「フィオーレ」などの候補の中から「広場」を意味する「ピアッツァ」に名前が決まり、リアクオーター下につけられた4つの三角マークは、石畳のパターンをモチーフに作られました。
そして3月に行われたジュネーブ・ショーに「ピアッツァ」は「いすゞX」として出品、いすゞは展示用に2台を輸送し、いすゞとイタルデザインの各ブースに一台ずつフェンダーミラー仕様で展示されました。
余談ですが、このフェンダーミラーは、日本の国内保安基準上の兼ね合いで運輸省がどうしても首を縦に振らず、1983年までデザインのバランスを壊すフェンダーミラー仕様での販売になってしまいました。
ピアッツァ最初期モデル。やはりフェンダーミラーは似合わない。
ピアッツァのコクピット。サテライトスイッチは慣れが必要。
アメリカ仕様のピアッツァ「インパルス」の広告
しかし、誕生したピアッツァは、ジウジアーロとの関係を生かして、わずか2年足らずの期間で開発され、これまでいすゞのフラッグシップとして君臨してきた117クーペシリーズが14年という天寿を全うし、新しいフラッグシップとしてピアッツァにそのバトンを渡すこととなりました。
<10年色あせなかったスタイル>
その後、FFセダンのアスカに搭載されていた2リッターのターボエンジンを搭載し、85年にはドイツのチューナー、イルムシャー社に足回りのチューニングを依頼した「ピアッツァ・イルムシャー」が追加、その硬質な中に見せるしなやかな足は、その当時の国産車では味わえない走り味と、多くのファンをとりこにして行きました。
ピアッツァ・イルムシャー。その色から「なすび」と呼ばれることも。
そして88年には、FFになったロータス・エランへのエンジン供給が縁で、ロータスとの技術提携がなされ、ロータスが足回りをチューニングした「ハンドリング・バイ・ロータス」が追加され、91年の生産終了まで実に10年間、そのスタイルは色あせることなく、全世界で11万3千台を売りあげ、記憶に残る絵になるクルマとして、今でも多くのファンに愛されています。
とはいうものの、基本設計は10年以上前のFRジェミニが元になっており、足回りやシャシーなどは何世代も前の設計であることは否めない事実ですが、それを差し引いてもいすゞはピアッツァに誇りを持っていたことは、イルムシャーとハンドリング・バイ・ロータスの追加からも間違いありません。
いすゞのエンジンを搭載したロータス・エラン
いすゞのデザインスタディ「スペーススポーツ」
やはりこれは、ジウジアーロスタイルの先見性と佇まいの美しさに尽きると思います。
10年間ほぼ同じスタイルで生産し、陳腐にならないスタイリングが、ジウジアーロの真骨頂と言ってもいいでしょう。
<2年で撤退した二代目>
しかし、その後2代目になったピアッツァは、ジェミニの派生モデル「ジオ・ストーム」を基にして作られた、初代とは似てもいないクルマになってしまったことは口惜しいところです。しかもいすゞの乗用車撤退のあおりをもろに食らってしまい、2年で生産終了の憂き目にあってしまいました。
ちなみに、二代目ピアッツァのデザインを手がけた人物こそ、あの中村史郎氏、現日産自動車常務執行役員にして、チーフ・クリエイティブ・オフィサーの肩書きを持つ、いまや「日産デザインの親玉」だったりします。
と、余談はここまでにしても、状態のいい個体があればぜひとも乗ってみたい一台ではあります。
もしくは、どこかでアッソのレプリカとか、作ってくれるとこ無いかなぁ^^;