「名車列伝」は、国内外で発売された自動車を取り上げ、その車について掘り下げていきます。
栄えある第一回は、軽自動車事業から撤退してしまう富士重工の基礎を作り上げた昭和の名車「スバル360」を取り上げていきます。



東洋一のカーマニア”改”
東洋一のカーマニア”改” 東洋一のカーマニア”改”


<開発のきっかけは「トヨタ」>
昭和33年3月3日に産声を上げたこのスバル360は、当時の軽自動車規格一杯の全長2.99m、全幅1.3m、全高1.38mの寸法に大人4人が過不足無く乗込めて、悪路を60キロで移動が出来ることを目標に、当時の開発陣は約3年の開発期間をかけて開発にこぎ着けました。


この「スバル360」を開発する前、富士重工は小型乗用車の開発を行い、開発コード「P1」という1500ccのセダンを開発し、当時画期的なモノコック構造を採用したボディや、前輪独立のサスペンションといった意欲的な装備を採用し、テストで持ち込んだタクシー会社などからは乗り心地や使い勝手などおおむね好評で、「スバル1500」の名前で量産・発売まで後一歩のところまできていた矢先に、銀行サイドから、融資を拒否されてしまい、先行試作車だけの生産で「P1計画」は頓挫することとなってしまいました。



<普通の家族が旅行できる車を>
P1の計画中止後、融資を断られた原因が、メインバンクがライバル日産との関係から、富士重工の小型車販売に難色を示しただけで、軽自動車の開発・販売なら融資をすると言う事がわかり「それならば軽自動車枠で普通の家族が4人で旅行が出来る車を作ろう」という方針に変更、開発の模索を行っていきます。


しかし、当時の軽自動車枠では、せいぜいが大人二人+子供二人、もしくは二人乗りまでが関の山とされ、誰もがその開発を絵空事と考えていたなかで、開発チームのリーダー、百瀬晋六(ももせ・しんろく)氏だけは、その可能性を確信しており、開発に際して難色を示す開発チームのメンバーに「やる前から『出来ねぇ』と言うのは、やる気のねぇ証拠だ!」と一喝、新型軽自動車に会社の存亡をかけ、軽自動車の枠では不可能とされた大人4人が快適に時速60キロで移動できる軽自動車の開発が始まりました。



<そこかしこに見える飛行機屋魂>
エンジンは当時の軽自動車規格である360ccの空冷2気筒エンジンで16.7馬力の出力を発生する。ちなみにこのエンジン、同社で発売していたスクーター「ラビット」の単気筒エンジンを元に作られたもので、当時計測された燃費は実に1リットルあたり26キロと言う経済性の高さも誇っていました。


この当時からすれば高性能であるメカの秘密は、このスバルの成り立ちにも関係する。

富士重工の前身は中島飛行機という戦前は高性能飛行機の開発を行っていた会社で、開発責任者である百瀬氏も飛行機の設計に携わる技術者であり、氏は「誉(ほまれ)」エンジンの改良に従事後、日本初のモノコック構造によるリアエンジンバス「ふじ号」を開発する実績から、新型軽自動車の開発リーダーになった百瀬氏は、暇さえあれば部下の机を覗いて回り、問題点を発見するとそこにどかっと腰を据えて担当者と共に考える、「技術に上下の差は無い」というのが口癖であったという仕事だけでなく仕事の後でも部下との酒の付き合いをこなすその人柄をして「エンドレス百瀬」の異名をもつ、その百瀬氏が中心となって、軽自動車開発チームは様々な難関に立ち向かう事となりました。



<寸法と重量のせめぎあい>
特に特筆に値するのが車体の軽量化と足回り、それをまとめ上げるスタイルです。


スバル360の車体重量は、発売時で実に385キロ(!)というもので、この軽さを実現した秘密こそ車体をフレームの代わりとするフル・モノコック方式をスバル360は日本車で採用した先駆者で、薄い鉄板をいかに強度を持たせるかを研究し、結論として球形(卵型)にたどり着いた設計陣が、工業デザイナーの佐々木達三(ささき・たつぞう)氏に依頼して、あの愛らしい姿が出来上がり、いまも「てんとう虫」の名で今も愛されるスタイルが完成しました。


さらに、走る・曲がる・止まるに大きな影響が出る車重の軽量化は徹底して行われ、まさにグラム単位で重量を見直されるほどのもので、この軽量化への執念にも似た取り組みは、戦前の中島飛行機時代に経験した「駄肉を盗む」技術から来ています。


その軽量化に大きく貢献しているのが、簡素にまとめ上げられた足回りで、1本の棒をねじり、それが戻る反力を応用したバネ「トーションバー・スプリング」方式が採用され、足回り設計担当の小口芳門(おぐち・よしと)氏を中心に悪路の中でもヘタらず、折れず、室内の空間を損なわないという難関を乗り越え、当時舗装率が極めて低かった日本の悪路を快適に走らせることの出来る足回り(これは俗に「波法のじゅうたん」「スバル・クッション」と呼ばれるほどの評判となる)は、乗り心地と限られたスペースの確保にも大きく貢献しました。



<性能試験で乗車拒否>

試作車は1957年4月20日に完成。試作車は毎日、高崎までの未舗装道路を往復する1日あたり16時間・600kmの長距離連続走行テストと、伊勢崎から赤城山山頂付近までエンストなしで往復する登坂テストをメインとして。問題点を洗い出して改良につとめました。


当時、日本の道路事情は惨憺たる物で、国道は「酷道」県道は「険道」市道は「死道」と揶揄されるほどの劣悪ぶりで、未舗装であった赤城山登山道路の標高差1000m近い連続急勾配区間は、当時の普通乗用車でもオーバーヒート覚悟の過酷なコースであり、大人4名を満載してのスバルの登坂も、幾度となくエンジンのトラブルに悩まされるも、冷却対策をはじめとするこれらの問題も最終的に解決され、最終的に赤城山の上にノンストップで到着可能することを実現しました。


そして、ついに市販をかけた運輸省の公道認定試験が、1958年2月24日に箱根で行われ、当時の記録では試験走行中、負担となる重量を僅かでも減らすため、ドライバーは2月の寒い最中でありながら、つなぎの下に薄い下着だけという非常な軽装で運転する、念の入れようでした。


この試験では、運輸省の職員2名が同乗することになっていたのだが、1人の職員はスバルがあまりに小さい車であることにおそれを抱いて乗車を拒み、代わりに1名分55kgの重りが乗せられた。このことで開発陣は憤慨し、認定試験でも箱根越えの試験コースを予定以上の快速で登坂するなど、好成績を収めたと言われています。



<開発に『これでよし』はない>
スバル360が発売されたあとでも、百瀬氏の持論である「開発に『これでよし』はない」というエンドレス精神が貫かれ、購入したユーザーからの要望に応えて、様々なところを改良して行き、ついには当初の目標であった35万円(当時のトヨペットクラウンの半額以下)と言う価格を実現し、後発のホンダなどが売り出すハイパワーな軽自動車への対抗として「ヤングS」「ヤングSS」というスポーツモデルを送り出し、生産が終了する1970年まで実に12年もの間、スバル360は販売を続けていきました。


これも、あの愛らしい姿と足回り、そしてその合理的な造りが長く愛された理由といえます。


スバルが昭和33年に販売を始めてから50年・・・
その50年を区切りにスバルは軽自動車事業から撤退を発表。その撤退に関わっているのが現在の大株主であり、かつて乗用車の開発競争でライバル関係にあったトヨタというのはこれも時のいたずらだけでは片付けられない因縁めいたものを感じるのは、私だけでしょうか?


写真協力:カーサービス