『ファシズム入門』41 第2章(8) | 我々少数派

『ファシズム入門』41 第2章(8)

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 社会党を除名となったムソリーニ
 話を戻すと、ムソリーニは大戦勃発から2ケ月余りを経た一九一四年10月に、参戦論に立つ最初の論文を『アヴァンティ』に発表、反戦方針を掲げていた左派主導の党内でこれは当然ながら問題視され、ムソリーニはその2日後に編集長を辞任させられます。
 しかし参戦論で腹をくくって意気盛んなムソリーニは翌11月、『イタリア人民』と題する新たな日刊紙を「社会党機関紙」と称して創刊、言論戦を継続します。この行動が直接の契機となって、まもなくムソリーニは、ついに社会党を除名されるのです。
 自らの除名を討議する会議で演壇に立ったムソリーニは、参戦論への「裏切り」「変節」との非難にこう応じます。「私はたしかに軍国主義にも帝国主義にも反対してきた。だが戦争に反対したことはない。私は常に革命的戦争には賛成してきたし、むしろそれを唱導してきた」。つまりこれまで自分がおこなってきた反戦運動とは、あくまでも「帝国主義的な戦争」への反対運動であって、あらゆる戦争が悪であるなどと主張したことはない、革命的な戦争というものもあって、そういう戦争については反対しないどころか、率先して推し進めてきたと云うのです。実際、ムソリーニが社会党最左派の指導者として、一貫して武装闘争を呼号してきたことは事実です。イタリア社会党左派の主流は第一次大戦を「帝国主義的な戦争」であるとみなしていましたし、今日の世界史教科書でもそのような評価が定着していますが、少なくともムソリーニの主観においてはそれは「革命戦争」、あるいは「革命戦争に転化しうる戦争」だったのです。
 除名が決議され、会場を後にしながらもムソリーニはこんな捨てゼリフを吐きます。「君たちはこの私の党員登録証を取り上げることはできる。だが私の信念を根こそぎにしたり、社会主義と革命のために私が引き続き闘うことを止めさせることができるなどとは思うな!」。
 ムソリーニは自分を「転向者」であるなどとは実際、思っていなかったでしょう。少なくともこの時点では、あくまで自分は昔も今も変わらず(最左派の)社会主義者であり続けていると確信していたはずです。
 この時、ムソリーニは31歳です。