昼飯→納豆、シチュー、マカロニサラダ
夜飯→刺身盛り、セロリ炒め、エビマヨ、サラダ、ハムカツ
飲物→黒酢ジュース、水、午後の紅茶 ミルクアールグレイ、金麦500ml、酎ハイ
「もうその話、やめて」
最近、子どもたちの間で頻発しているリアクションである。
どういうことか?
つまり、何かについて叱られたり、説教されたあと、また似たようなことをくどくどくどくど言われるのが嫌なようで、「もう、わかったから、その話はやめて」というような意味合いで繰り出される反応のようなのだ。
とはいえよ?
叱られてるにもかかわらずの、「もうわかったから!」っていうのは、さらに相手をイラつかせるやん?
いやいや、その言い方は反省してねーだろうし、本当の意味ではわかってねーんじゃねーのかよ!
と……。
そこでムキになるのも大人気ないとはわかっていながらも、やはりそのリアクションはちょいとイラつきをスルーさせるには難しいことが多々あり、最近はソレは控えようとは思っているのだが、やはりさらにツッコミというか追い打ちというか、を、かけることがいまだにある。
でも、なんだかんだで思うんだよね……。
この展開繰り返してたら、女子には間違いなく嫌われる!
って……。
だからこその、この対応の難しさよ。
男児相手であれば、「黙れ、口答えすんじゃねー!」くらいで済ましてもよいのだろうが(笑)、女児にかんしては、女児であるけれども、もはや女子……、「嫌われる男性の行動パターン」にあてはまろう行動をしようものならば、すぐさま巷でウワサの「パパ拒絶」反応が起こってしまうんではないかと、内心ドキドキ全開もんなのである。
とはいえよ?
やはり、躾は大切なのであり、時には叱ることや説教タイムも必要なもの。
躾と聞くと、最近は言葉の使い方やらがおかしな方向にどんどん勝手に進んでいる傾向にあるので、変な解釈や受け取られ方をされかねないのだが、それでも躾というものは、育児の上で必要なことだとは思っている。
「怒らない育児」なる系の本をサラっと読んだことがあるのだが、確かそこには、「怒る」と「叱る」は異なり、「怒る」は感情に任せたただの「怒り」であり、「叱る」は生きていく上で必要最低限の行動規範やマナー、エチケットなどを教えるための「躾」なんだというようなことが書いてあったような、なかったような、私の勝手な拡大解釈のような(笑)。
そして、十分、「怒る」という行為があまりよろしくないということは理解はしているし、「怒る育児」ではなく「叱る育児」を実践すべきなのだということも重々承知いたしている次第ではあるのだけれども……。
けれどもさ、、、。
怒らないで育児するなんて普通に無理だろ!(笑)
だいたい、人生、イラつくこともあるでしょーよ。
イラつかない聖人タイプもいるかもだけど、だいたい、人生の半分はイライラでできてるんじゃないかっていう人のが多いだろうって世の中で(笑)。
そんな、バファリンみたいな優しさ半分以上の人生を送りたいのは山々だけれども、ついつい「叱り」が「怒り」に転化してしまうことだってあるだろう。
かくいう私も、冒頭の、いわゆる「口答え」的なカウンター攻撃には正直イラっとくる(笑)。
その前のこちらからの攻撃は、攻撃的な「怒り」ではなく、教育的な「叱り」なんだとしても、「もうわかったから、パパうるさい!」的な反撃がくると、わかっちゃいるけれど、「叱り」が「怒り」に変わってしまうようで、自分自身のコントロールができずにおっかねぇ、わけなのだ。
って、なんだかクドクド感がハンパなくなってきたので、このへんで、さっさと飯とします。
いつもの三種盛りと冷奴。
朝はこれに目玉焼きさえあれば、それで満足できる気がしてきた。
納豆、マカロニサラダ、シチュー。
色々冷蔵庫に残っていたものを昼飯で消化。
イエス。
と、いうことで、以前にも一度紹介したかもしれないのだが、紹介していなかったらぜひとも紹介したい言葉があるので、さっそくなので、最後にドカンといっておきたい。
まぁ、どこの誰が最初に提言したのかは知らないのだが、かの白州次郎さんの奥方、白州正子さんが自身のエッセイかなにかの中で、こんなようなことを言っていた記憶がある。
「身を美しくと書いて躾と読む。美しい所作や相手を思いやる美しい心を身に付けさせるために躾るのです」的な。
ニュアンスちょっと違うかもだけど、確かそんなような感じだったかと。
この文章を読んで、漢字ってスゲーなぁという感覚と共に、「躾」という、なにやら今では嫌な印象を与えがちな言葉が、私の中では美しくキレイな言葉として植えつけられたような気がした。
もちろん、自分自身の感情に任せての、怒りやイライラからの「オコ」は確かによくないことであるし、できればそういった感情任せの「激オコ」は子どもに対してはしたくないというのはあるし、ソレはほとんどの場合、負の連鎖しか生まないであろうことは、先ほどからクドクド繰り返しているので、よく理解しているつもりである。
とはいえ、人間だもの、そういう時も時にはあってしまうわな。
とはいえ、ただの「オコ」は極力避けつつ、身を美しく保つための「躾」、つまり「シツ」は、大いにやってしかるべきなのではないかと思われる。
シツってどんな造語だよ!
わかりにくいし、むしろ「しつこい」の「シツ」みてーに聞こえるわ!
激シツコイコイ丸。
黙れ。
と、いうことで、先ほどの白州正子さん、こんなようなことも言っていたような気がしたので、書いておこうかなと。
「型はすばらしい。型があるから自由になれる」。
そう、「オコ」という、基本となる型をきっちり学んでいるからこそ、「激オコプンプン丸」が生まれ、そこからさらなる自由という名の大空に羽ばたいたことによって、「激シツコイコイ丸」のような新たな言葉が生ま……
二度、黙れ。
はい。
もとい、しよう。
「型はすばらしい。型があるから自由になれる」。
そう、子どもたちに、「人生の基本」とでもいうべき基礎知識を「躾る」ことで、そこから彼彼女たちは自由に羽ばたくことができるのではないかと思うのであり、やはりソレを教えることができるのは彼彼女らと最も身近で生活している、われわれ親なのではないかと、クドクドクドクドと感じた今日このごろなのであった。。。
だからこそ、大いに型にハマってみよう。
むしろ、もっともっと型にハメてしまっちゃおう(笑)。
と、言うとなんだか、また方向性がズレていきそうなので(笑)、兎にも角にも育児はすこぶる難しいというわけだ。
さっきからとはいえ、とはいえ、が多くて、なんだか「とはいえさん」みたいなあだ名をつけられそうでなんだかなという感じなのだが、とはいえよ?(笑)
コレだけは言えるのではないか?
自由に羽ばたくために、まずは型!
あれ?
なんか、ちょっと、いい感じのブログじゃね?(笑)
「もうその話、やめて!」
そんな長女の声が聞こえてきた気がした、日曜日の夜だった(笑)。