昼飯→からあげ、厚揚げサラダ
夜飯→サイゼリア晩酌
飲物→水、コーヒー、黒酢ジュース、午後の紅茶 おいしい無糖、缶コーヒー、むぎ茶、生ビール、赤ワイン
仕事→某エンタメ雑誌の編集
どん。
家出娘か!
お食べーーーー。
納豆、冷奴。
イソフラボンパラダイス!
厚揚げサラダ、からあげ。
厚揚げが入っているので食べ応えアリなサラダ。
シュリンプ、ほうれん草、小エビのサラダ。
コレらをツマミながら生を一杯。
そして、シメ的にチーズチキンを。
こちらは赤ワインを肴に完食した。
どん。
『A』『A2』から15年、再びあの監督が蘇る!
森達也監督最新作『FAKE』、観てきました。
昨日はウディ・アレンで翌日にも映画を観に行くという贅沢展開。
いや、『FAKE』は元々知り合いの編集さんにも勧められおり、観たら語りたい! と言われておったので、終わらないうちに観なければと思い立ち、出勤前の午前中の回に突撃して来たというわけなのだ。
結果………。
鳥肌立ったわー。
パンフレットでどなたかが、「コレはホラー映画だ」的なコメントを残していたが、あのラストの背筋にゾッとくる感覚はまさに「ホラー」といっても過言ではないのかもしれない。
いや、全然内容はホラーではないですよ?
ただ感覚的に言うとそうとも表現できるというか。。。
とはいえである。
コレは正直、オススメしたい。
昨日のウディ・アレン映画に出てきた、「人生がむなしいから人はゴシップをつくりだす」という名言ではないが、2016年に入ってからというもの、ベッキー騒動を筆頭に、あまりにもエゲツないゴシップが連発している。
世の中、退屈している人が多いのだろう。
そんなくだらない情報が氾濫し、面白おかしくスキャンダラスに演出された内容に一喜一憂し、あーでもないこーでもないと騒ぎ立てる。
賛否両論、そして事態は二極化し、善か悪かのどちらかだけでしか物事を考えられないようになっていく。。。
もっと大事なことあるんじゃねーの?
それって一方的な情報なんじゃねーの?
メディアが言ったことをすべて鵜呑みにするのってどーなのよ?
危うい、危ういぜ、ニッポン。
と、声高々に、いや、むしろあくまで静かに、淡々と、極めて冷静に語っているのが、この映画である。
佐村河内守。
下手したら誰だっけ、それ? みたいな方々もおられるかもしれない。
私自身、事件が起こっていた時もたいして興味は持っていなかったし、というよりこの手のゴシップは正直マルっとドーデモいいと思っている。
とはいえ、佐村河内さん、当時はものすごい勢いで報道され、バッシングされ、けちょんけちょんにわちゃわちゃされてしまった人である。
そんな彼の視点に立って、事件後の彼を追い続けた作品が『FAKE』なのだ。
と、ここまで書いてきたが、コレ語りだしたらたぶん止まらなくなる上に、実際に観た人とでないとあーだこーだと言えない感じが満載なので、とりあえずはこのあたりで止めておいてしまおうと思うのだが、簡単に説明すると、要は「佐村河内守サイドからの主張」をまとめた作品であり、「報道されてきたことはすべて本当に真実だったのか?」ということを示そうとしている作品なのである。
FAKE。
意味は、「(だます目的で)偽造する、(…の)ふりをする、フェイントを使う」。
文字通り、様々なことを偽造してきた佐村河内守を象徴する言葉であると同時に、さらには佐村河内事件を飯のタネとして報道してきたメディアの「過剰なゴシップ演出」に対するものでもあることは明白だ。
けれども、森監督による佐村河内サイドの描き方もまた、「ヒール役をとことんヒールに、笑いものにした過剰な演出」と捉えることもできるだろう。
だからこそ、この作品自体が「FAKE」である可能性も十分あり得るのだ。
某名探偵少年の言葉にこういうものがある。
「真実はいつもひとつ!」
ではないだ。
むしろ、それぞれの立場による、それぞれの真実があり、それを受け止める側がそう感じればそれが真実になってしまう。
映画の宣伝では、「誰にも言わないでください。衝撃のラスト12分間」というフレーズがある。
とはいえ、個人的にはソコはソコまでの衝撃は受けなかった。
むしろ、映画評論家の町山智浩氏曰く、「ここはヤラセですよ」的な解釈すらわかるような気もしないでもない。
いや、確かにこの映画を「ひとつの愛の物語」と捉えれば、衝撃的というよりは感動的な印象を受けることができるかもしれない。
実際、私、鑑賞中はしっかり感動を覚えていたわけで。
だが、最も痛烈だったというか、投げっぱなしというか、人が悪いというか、突き放すというか、踏んだり蹴ったりというか、ホラー映画なのが、本当のラストカットである。
「いまぼくに隠してることはありませんか?」。
うん、実際、映画で語られてきたどこまでが真実なのか、さっぱりわかんねーよね!
けれども、面白いことは面白い。
そして、多くのことを考えさせられる。
そして、誰かと映画の話を語り合いたくもなる。
そういう意味では大成功しているし、人々を楽しませるという点で考えれば物凄くエンターテイメントだ。
ただ、気になるのは、この「映画後」の話である。
彼らは今後どう生きていくのか?
徹底的に私生活を撮られ、それが映画化までされ、その先にアカルイミライは約束されているのか?
パンフのコメントでは、「森監督はドキュメンタリーを撮りながら、とうとう被写体までハッピーにさせてしまった」的なことが書かれていたが、果たしてそれは本当なのか?
こればかりは、今後の彼らを追い続けなければわからないことだが、物語の後半、監督が彼らに問いかけた言葉がある。
「いまだにぼくを信じていますか?」
「ラブ・イズ・ブラインドネス」ではないが、人は心の隙間を埋められると、どうしても盲目的になりがちだ。
誰が騙していて、誰が騙されているか、誰が何を企んでいて、誰がお人好し過ぎるのか。
もはやそれは誰にもわからないのかもしれない。
かくゆう私も、書いていてどんどん思考が迷宮入りしていくのがヒシヒシと理解できる。
最後に、この映画が2016年に公開されていることは、色んな意味で素晴らしいことなのではないかとも感じている。
ゲスベッキー、清原、SMAP、乙武さん、アンタッチャブル……。
信じてたのに⁉︎
そんな人だとは思わなかった⁉︎
もう誰も信じられない⁉︎
いやいやいや、別にキミたちを直接傷つけたわけでもないし、むしろだいたいわかってたってことも多々あるでしょう?
そしてコレらの出来事は、一過性の熱だけを帯びて、ネタにされ、叩かれ、けちょんけちょんにされ、そして一年ももたずに人々の記憶から忘れ去られていく。
そう、そして、『FAKE』で描かれていることもコレらとたいして変わりはない。
そもそもツッコミどころは満載だし(それがめちゃくちゃ面白かったりもするのだが)、この映画の側面だけを鵜呑みにして、「マスコミがダウトで、悲劇の人は佐村河内さんだったんじゃん!」なんて思おうものなら、映画の本質を取り違えてしまっているとしか言いようがない。
これまたパンフのコメント欄で、友川カズキ氏がこんなようなことを言っていた。
「AにA2があったように、FAKEもFAKE2を撮って欲しい。今度は新垣さんの視点で」。
ええ、まったくもってマルっとサクっとその通りだと思う。
でなければ、ただの佐村河内擁護映画で終わってしまう可能性は多々あるだろう。
結局は何度も繰り返すように、真実はいつも多数! なのである。
そうそう、そんなことを考えながら、鑑賞後、しばらくしてから思い出した言葉がある。
「信者と書いて、儲かる」と読む。
yeah!!!!!
ホラーだぜ!