昼飯→明太子スパゲティ
夜飯→かぼちゃのバター煮、もやしと茄子炒め、豆と野菜たっぷりのポークトマトスープ
飲物→黒酢ジュース、水、金麦500ml
仕事→某児童書の編集、某アイドル雑誌の編集
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
そんな流れで、太宰の『ヴィヨンの妻』を何十年ぶりかに読んでみた。
今さらどうした‼︎⁇ と、問われれば、何て答えて良いかわからぬけれども、なんとなく引き寄せられるようにブックオフで100円にて購入した、晩年期の彼の作品集がカバンの中に転がっていたのを発見し、昼飯を食べながらサクっと読んでみたのである。
やはり私小説というものは、その作家がその作品を書いた年齢に、読み手が近づかないと味がわからないものなのだということを、改めて実感させられたのであり、女性を描かせたら女性以上の心理描写を創造することができる彼でないと気付けないであろう女心と、女性への「恐怖」と「畏怖」の念や「劣等感」などの複雑な感情、そしてどうしようもないくらいの女性への「依存」と「愛」が感じられた作品であった。
太宰もまた、男子が消耗品であることを心底理解していたと思われる。
理解していたからこそ、彼女たちに「母性」を求め続けたのであり、現実から目を背けるために逃避行を繰り返したのであり(※この場合の逃避行は自殺未遂のことではなく、男と女の本質を知り尽くしてしまった男が、敢えて女へと逃避すること)、それが玉川上水入水への引き鉄になっていたのではないかとさえ思える節まで感じられるのだ。
ただし、彼の死因については諸説ある上に、もはや真相は誰にもわからないため、ここでの考察は控えさせて頂くが、とにかく晩期の作品には確かに死の影は感じられるものの、自ら命を断つに至ったとはあまり思えないのが私の正直な想いである。
やべぇ、太宰なだけになんだか暗い!
えぇ、一向に明るくなり得なさそうなので、ちょいとここらでひと休みご飯といきましょう。
豚汁がものすごく沁みる。
かぼちゃは炭水化物なのでアレだが、特にこれ以上の食べ物は口にしなかったため、健全なるヘルシー晩酌だったかと。
スープがグゥ。
えぇ、特に私、精神に異常をきたしているわけではない。
そう、つまり、なぜ昨日あたりから「いつもらしからぬ」雰囲気の記事になっているのかとツッコまれたとしても、別段これといった理由があるわけではなく、以前にも書いたことはあるが、基本的には根暗な性格であるため、常に脳内ではこのくらいの妄想は日常茶飯事なのである。
それが、なんとなくネタがなかったこともあって、2日に渡って文字として起こされているだけであり、なんのこたぁない、これはこれで私なのであり………
って、そこまでドン引きしなくてもイイではないか!(笑)
はい、うっとおしい。
ということで、もはや自分でも収集がつかなくなってきているのだが、だからといってツラツラツラーっと書いてしまった文章を捨て去る勇気もないもので、このままアップしてやろうと意気込んでいるのであり、なんとか無理矢理にでもオチをつけねばならぬという強迫観念にも駆られつつ、兎にも角にもいっぱいいっぱいなのである。
だもんで、とりあえず、ここは、太宰と盟友であった、坂口安吾氏に登場して頂くことにしよう。
安吾はまさに太宰とは正反対の人である。
『太宰治情死考』からの一節……。
「むしろ、体をなさないだけ、彼の苦悩も狂おしく、胸の嵐もひどかったと見てやる方が正しいだろう。この女に惚れました。惚れるだけの立派な唯一の女性です。天国で添いとげます、そんな風に首尾一貫、恋愛によって死ぬ方が、私には、珍だ。惚れているなら、現世で、生きぬくがよい」
超リアリスト!
いや、でも安吾の言うことも至極最もだ。
確かにとことん惚れ抜いているのであれば、それが失楽園であろうと、人様に迷惑がかかろうと、死ぬことはないわけで、どうにかこうにか生き抜くために生きる抜くはずだ。
だが、やはり、自殺や心中もまた、ナルシズムの極致である。
死への陶酔は、すなわち自己への陶酔とも言えるのであり、誰かと一緒に添い遂げるなどというのも、結局はそんな自分に酔っているわけで、「キミのことを死んでもイイと思えるほどに愛してる自分が好き」という心理こそが最も正解に近いように思えてならない。
彼らの死を茶化すネット住民たち曰く、いわば太宰と山崎富江は「中二病」と「メンヘラ」なのであり、そんな性質がうっかり一線を越えてしまったことで引き起こされた結末だったのでは、とも言われていたりする。
また、実は太宰は入水前に死亡または仮死状態にあったのではないかという推測もあり、つまりそれは「自らの意思による死」ではなかった可能性も浮上してくるわけだ。
だが、それこそただの妄想に過ぎず、現場で何が起こったのかは知るよしもないが、とにかくさっさとこの記事を終わらせないと意味不明度がますますあがっていくだけなので、もう一度安吾先生のお言葉を拝借させて頂くことにしよう。
「芸道は常時に於て戦争だから、平チャラな顔をしていても、ヘソの奥では常にキャッと悲鳴をあげ、穴ボコへにげこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、世の終りに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてゞある」
そう、作品がすべてである。
だからこそ、彼の作品を読み、そこから何を感じるかは読者の自由であり、彼の死からわかることなど何ひとつとしてない。
昭和きっての元祖中二病作家と言われていたり、太宰作品は書き手も読み手もナルシストだなんだと冷笑されることが多々あれど、彼の作風はそういう面だけではない、もっとさまざまな側面を内包しているわけだし、なおかつ男なんぞはほとんどがロマンチストとナルシストの塊であり、何よりも超面倒臭い生き物なのであるからして、、、
もはやお前が面倒臭い。
うんうん、とはいえ、今年の読書の秋は、太宰に酔いしれてみるのも悪くないかもしれない、と思った今日この頃であった。
「あの女の美しさが俺を苦しめるのだ
気難しくも優美な偽善者
気性ときては鉄よりも硬く
俺を悩ますためにあるようなもの
あいつの魅力が俺を殺す
気位の高さが破滅を呼ぶ
容赦のない目が射すくめる
哀れな男を救ってくれ」
By フランソワ•ヴィヨン
嗚呼、私こそがナルシストか……。
とりあえず、この記事はスルーってことで!