加賀藩3代藩主光高は、下表のように前田利常と珠姫

(徳川秀忠の次女)の長男である。


光高の正室は、三代将軍家光の養女で、実父は水戸徳

川頼房四女大姫である。頼房は家康の十一男であるか

ら、大姫は珠姫と同様に家康の孫娘である。

大姫は享年30才で亡くなったが、長男綱紀と次男万

菊丸を産んでいる。綱紀は4代藩主になり、長生き

で享年82才だが、万菊丸は享年5才で夭折している。


4代綱紀の正室は徳川家光の異母弟保科正之の四女

であるが、子を産むことなく、若死にしている。


5代藩主吉徳から9代藩主重教まで、御三家や親藩

から正室を迎えている。


10代治脩は、兄4人が亡くなり、想定外で加賀百万

石の藩主になりました。そのため、大聖寺藩主の娘

が正室です。側室に長男が生まれましたが、夭折し

ました(享年6才)。


11代藩主は、9代藩主次男斉広がなりました。


12代藩主は、斉広の長男斉泰です。斉泰は11代将

軍家斉の21女溶姫を正室に迎えました。

溶姫の輿入れにあたり、加賀藩上屋敷に建設された

門が東大本郷キャンパスの赤門です。

溶姫は13代藩主(最後の藩主)となる長男慶寧を

産みました。


このように加賀藩前田家は、将軍や御三家などか

ら正室を迎えて、親徳川路線(将軍家に忖度)を

基本としてきました。

これが幕末には裏目になりました。実権を持った

斉泰は佐幕派で、皮肉なことに溶姫が産んだ慶寧

は尊王派でした。斉泰は、慶寧側近の尊王派を弾

圧しました。鳥羽伏見の戦いの幕府方敗報を受け

た斉泰は大軍を率いて金沢城を出発し、大坂城に

向かいます。しかし、すでに錦旗(錦の御旗)は

薩長方にあり、幕府軍は賊軍になっていました。

進撃中に幕府方が賊軍になったことを知り、金沢

に引き返しました。そして、佐幕派を処分し、朝

廷への臣従を表明し、追討を逃れました。

実権は持たないが、現藩主が尊王派(勤王派)だ

ったことで、助かりました。


しかし、斉泰が尊王派を弾圧したので、明治政府

で活躍できる人材がいませんでした。

最大の大名でありながら、徳川幕府ベッタリ路線

のため、骨抜きになってしまい、時代を読めなく

なったと思います。